佐久之宮講社篠澤家の祖である滋野家の什器が伝わっておりますがこの写真は明治期頃の 調査のものです。 一桐大念珠信濃国産科緒二綴 其二晨祖貞保親王三年忌追福ノ製但シ延喜乙丑願主滋野氏トアリ 其二次祖菊之宮眼病平癒祈願ノ製 木像二基 第一貞保親王 第二親王ノ師船代 滋野善渕王ノ製 獅子香炉本朝鋳物創始ノ製 黒藤梓弓本朝最古二紀ノ製 写真は明治頃
諏訪湖面が結氷し、盛り上がった氷堤が見られる現象を御神渡(おみわたり)と言いますが、この御神渡には、「一之御渡り」と「二之御渡り」と「佐久之御渡り」があります。 ではなぜ「佐久」なのでしょうか?。むかし、むかし、そのむかし、諏訪之神(タケミナカタ)は、荒船之神(ヌキサキメ)と結婚しました。やがて佐久之神(オキハギ)が誕生し ました。オキハギは佐久地方を開拓し、新海神社で暮らしていました。そのオキハギは、たまに父神(タケミナカタ)に会いに行くそうですが、この痕跡が諏訪湖の 「佐久之御渡り」と言うそうです。 ちなみに諏訪之神(タケミナカタ)の父神は出雲之神(オオクニヌシ)です。 それから新海神社には御霊代石という聖石があり諏訪湖の水音を発するそうです。
江戸から数えて22番目の岩村田宿は中山道六十九次の中でもかなり特異な宿場である。 まず本陣、脇本陣がない。 それに代わるのが龍雲寺、西念寺、法華堂などの古刹、割本 篠澤家であった。 旅籠は8軒(天保14年)と宿場の機能としてはごく小規模だが、 鍵型に形成された宿場は900m強、家数350軒と信州では3番目に多い。 ※月刊中小企業レポート462号長野県中小企業中央会発行元信州短大 現佐久大学副学長・佐久地域文化センター長中藤保則氏16P中7P。270510より 特異な宿場「岩村田宿」(篠澤家は本陣の代わりだった)
宗門改帳とは、宗旨人別帳とも言い、江戸時代に作らてたものです。江戸幕府がキリスト教の信仰を禁じるようになると、取り締まりの手段として、住民の信仰の状況 を調べ台帳化する策を講じましたが、現在の戸籍に相当する台帳でもあります。その多くが氏族の家系や歴史を追跡できる史料として貴重なものとなっています。 我が家(篠澤家)には佐久地方の神職の家々の宗門を管理し、その原本が残っています。また篠澤家には江戸時代に佐久の社家が京都の吉田家に神職免許を拝受に上がる 時には添状を発行しており、その資料も現存しています。
中山道岩村田宿に本陣は存在しなかったと言われてきました。しかしこのたび私の家から 「岩村田本陣は大破し再建に至らず…」と書かれた寛政年間の文書が七通ほど出てきました。
信州佐久篠澤家に伝わる江戸期のもので「巳年」と書かれたものがあります。 この文献には「対馬神職は、織部神職が内育した清九郎という者でしたが、 織部が神職を辞職する時に苗字と地位を与えました。 なお対馬神職は織部神職と同じ墓に入り たいと言っておりますが拒否しました」 という内容が書かれています。 織部神職の墓は佐久に現存しています。
江戸時代延享三年(1746年)一月六日この日、 伊勢神宮の福島神主へ篠澤佐五右衛門包道が 佐久鯉料理を献上したことにちなむ。 包道の子孫の篠澤明剛氏が制定。 日本記念日協会正式認定。
■平成二十六年出雲大社神在祭 12/1/19:00 神迎祭 稲佐浜 12/2/9:00 神在祭 本殿 12/6/10:00 神在祭 縁結祭 本殿 12/8/10:00 〃 〃 12/8/16:00 神等去出祭 仮拝殿
佐久市無形文化財の岩村田祇園祭は室町時代から伝わる伝統の祭です。 この祭の中に篠澤家での御振舞があります。 篠澤家の江戸時代の祇園文献は200通ほど現存しています。 今も毎年のべ200名の祭衆に無償で 食事と飲物を提供しています。 神事は今も廃仏稀釈前の祇園牛頭天王の大前にて斎行されます。 また、この祭の起源ともなった舟姫入水の地は 篠澤家が代々所有と管理を行ってい慰霊を行っています。
篠澤家は佐久三十六ヶ村の名主・庄屋を統括する割本という職を慶長の篠澤対馬守以来明治七年の篠澤豊太郎滋野近吉まで務めてきました。当地の割本は武士と同格の地位で 郷士のような立場でした。※郷士篠澤家と記された文献もあります。また吉田神社、伊勢神宮、出雲大社との関係も深く神職を務めた当主もおりました。 これは江戸時代の岩村田住吉神社御託宣書です。託宣(たくせん)とは、神が人にのりうつったり、夢や儀式の中に現れたりして、その意志を告げることで、簡単に言うと神様の お告げです。託宣書はその内容を書いたものです。
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