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信州佐久神道たより
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氏神様へお参りしましょう. 15/02/24(火)09:03:47
氏神様は神として祭られた氏族の先祖のことでした。例えば藤原氏の天児屋命などは有名です。一方、その氏族にゆかりのある神様のことも示します一例として源氏の八幡宮などがあります。やがて、住んでいる土地の人々を守護する神様のことを示すようにもなりました。また産土神や鎮守の神と同一視されることも多いです。
氏神様は日本全国津々浦々にあり、その氏神様の周辺の地域に居住している人々やお祭りなどの行事に参加する人たち全体を氏子と呼ぶ場合が多いです。
私達日本人は、国土之大御恩に感謝を捧げて日々を過ごしたいものです。また土地や御先祖様や神々様や御皇室への[報じても報じきれない大御恩]に感謝するためにも
氏神様を崇拝し、深い祈りを捧げましょう。

■神道三ケ條 15/02/13(金)08:30:10

これは私の8代前の先祖である篠澤野包淑が京都吉田神社より拝受したものです。楢原国造族の後裔篠澤家は江戸時代に吉田神社と関係が深く、佐久地方の社家が神官免許を拝領
する際に添状を発行しておりました(別写真)。今も我が家には江戸時代を中心とした神具、衣冠装束、祓具、祝詞、湯立具、伊勢神宮御祓大麻20体、御師歌碑、御神軸などが残っております。

武田信玄より冠拝領の書 15/02/03(火)13:56:35
佐久岩村田篠澤家は武田信玄公より「冠」を拝領し、長く地元祭祀に関与してまいりました。冠は今も家宝として現存しております。

■霊諌山. 15/01/27(火)08:09:23

霊場の霊諌山は母の実家です。大国主大神・八百万大神・天神地祇大神を奉斎致します。神事では私もご奉仕をさせて頂きました。


■伊勢神宮への献上料理の献立。 15/01/16(金)07:30:34

私の八代前の先祖篠澤滋野包道が伊勢神宮御師福島鳥羽大夫へ延享三年正月六日に献上した料理の献立です。
三宝:のし、米。御座付:御吸物鯉:青な、氷豆腐、ふくさ味噌。御銚子:御さかな:但し巻きするめ、きじ、やき鳥、だいこんにて引く。ちょく:あわび、
生姜酢。本膳:なます、あら、くり、しょうが、にんじん、唐のいもくき。汁:豆腐、かまぼこ、しいたけ。煮物:手いも、焼くり、とうささげ。
御めし。  ちょく:岩たけ、くるみぬた。汁:真たら、こんぶ。  香の物。引而:さしみ ひらめ、やき玉子、いり酒にて。  平もり:鴨麩、にんじん、
しいたけ、ねぎ、くずたまり   焼物: ぶり、えび。  せりふき:ただし重にてひく。 御吸物:包み玉子、のり、柚。 御肴: あさりかい、
からしにてあえ。御酒:さかなさかな。御菓子:いろいろ。めでたく。

謎の巻物 信州佐久 14/12/24(水)19:36:26
■佐久に現れた巻物
全国かくれキリシタン研究会副会長      宮地國男

はじめに全国かくれキリシタン研究会信濃大会が平成24年に長野県佐久市で開かれた。この大会では佐久市、小諸市、御代田町、軽井沢町とキリシタンの足跡を求めて巡検した。
この巡検した場所は、かって中仙道、北国街道が走っていた宿場町である。ところで、長野県は歴史を研究している人々は大勢いますがキリシタンの研究だけは遅れている。
それは、キリスト教を歴史から見ないからだろうと私は想像している。このことは、長野県だけの現象でないかもしれない。仏教と歴史的な出来事はいろいろな場面で関連性が
問われるが日本のキリスト教はそこまで行っていない。それどころか、郷土の歴史を語るときに著名な方でも、信濃の国にはキリシタンは居ないと聴衆に語って憚らない。
この様な土地柄での信濃キリシタン大会なのでその研究発表の反響はすごいものがあった。この大会以後、多くの市町村から問い合わせが続出している。
これも、信濃大会で、会員の皆様がキリシタンに対し多くの事柄を、人々に語った結果だろうと感謝している。

大会で披露された巻物
信濃大会で佐久ホテルの社長篠沢(ささざわと読む)氏が一巻の家系図を披露してくれた。篠沢家は由緒ある家柄で、江戸時代には中仙道、岩村田宿の本陣として名をなしていた。
(篠沢家には、古文書が埋もれている。)ちなみに、私が信濃大会の実行委員長で副実行委員長は篠沢氏である。篠沢氏とは地元の歴史クラブの仲間だ。また、篠沢氏は江戸時代には
中仙道の岩村田宿に用水を開削した人としてしられている。ある時、私は篠沢家の家系が記された巻物を見せてもらった。家系図は天正年間から始まり、現代までの篠沢家の家系が
書かれている。(以下巻物と書く)この家系図は巻物になっており、門外不出であった。

系図を披露してくれた。篠沢家は由緒ある家柄で、江戸時代には中仙道、岩村田宿の本陣として名をなしていた。(篠沢家には、古文書が埋もれている。)
 ちなみに、私が信濃大会の実行委員長で副実行委員長は篠沢氏である。篠沢氏とは地元の歴史クラブの仲間です。また、篠沢氏は江戸時代には中仙道の岩村田宿に
用水を開削した人としてしられている。
ある時、私は篠沢家の家系が記された巻物を見せてもらった。家系図は天正年間から始まり、現代までの篠沢家の家系が書かれている。(以下巻物と書く)この家系図は巻物に
なっており、門外不出であった。この巻物の表紙に当たる部分に、アルファベットらしい文字と、見た事の無いイコンのような絵があった。

(写真参照、写真には、説明の為に、数字を付加した。大魚氏作成)

文字と絵らしきものは錦糸で織られている。一見すると、絵は魚の様に見える図柄であるが実に見事な家系図の表紙である。
現在の頭首篠沢氏は十九代目だと言う事であるから、巻物には天正年間から現代までの篠沢家の系図が書かれて居た。ちなみに、江戸時代末期には、篠澤家の娘が佐久間象山に
嫁いでいることまで載っている。

ここの先祖が篠沢用水を開削したので、私が研究していた御影用水の研究と大きく関わるので、何度となくお会いして語り合っていた。しかし、巻物に書かれている文字と絵図は
皆目見当がつかないので、信濃大会が行われた時に絶好の機会と思い巻物を会員に披露したの。巻物は会員の中で大変な反響を呼んだ。そこで、色々な意見がでた。特に注目したのは、
「キリシタンと関係がある巻物」という見解である。そして、本会の会員の山口県にお住まいの小川信子会員は、「ラテン語から英語、イタリヤ語、ドイツ語に詳しい方がおられるので
問い合わせをしてみる」と言われた。
そして、大会が終了した次の週には解読できたと連絡が入り、大魚先生から解説と解読の入ったCDが送られてきた。この手際には驚くと共に感謝で一杯だった。
巻物の表紙は次のように読めるとの大魚先生の見解である。なお、小川信子氏によると、「大魚先生は定年まで広島県養護学校に務められていて、翻訳の天才とまでいわれている
お方です。現在は広島県立養護学校を早期退職した後は日々、中世スペイン語と近世フランス語に勤しんでおられるとの事です。
 次いで、谷村秀彦先生の見解を聞くことができた。谷村先生は数年前、筑波大学を退官し名誉教授となって軽井沢に住みついた方で、カトリック軽井沢教会の信徒代表なども
歴任した方である。この先生にもキリシタン大会の運営に協力してもらった。 
そこで、信濃大会が無事終了したので、役員慰労会を、開催地佐久ホテルで行った。慰労会の席で、件(くだん)の巻物を篠沢氏に持ってきてもらった。そして私が、キリシタンの
会員(小川信子氏)から連絡が入ったことを報告した。そして、谷村先生に「どうです、谷村先生も一言書きましょうよ」と誘った。すると、谷村氏、宴会そっちのけで、巻物と
大魚先生の見解を睨むように見続けていた。 翌朝、早くに「巻物の謎の字が読めた。」と少々興奮の様子で谷村先生から電話を頂く。


そこで、信濃大会が無事終了したので、役員慰労会を、開催地佐久ホテルで行った。慰労会の席で、件(くだん)の巻物を篠沢氏に持ってきてもらった。そして私が、キリシタンの
会員(小川信子氏)から連絡が入ったことを報告した。そして、谷村先生に「どうです、谷村先生も一言書きましょうよ」と誘った。すると、谷村氏、宴会そっちのけで、巻物と
大魚先生の見解を睨むように見続けていた。 翌朝、早くに「巻物の謎の字が読めた。」と少々興奮の様子で谷村先生から電話を頂いた。
 こうして、お二人の先生から、巻物についての見解を聞くことができた。そこで、お二人の意見を参考に、謎だらけの絵文字の解説を行う。



巻物の解読
 この巻物は、武田菱の様に見える地に、アルファベットのような文字、魚のように見える絵が金糸で、織り込んでいる。英語ではないとわかるが、スペイン語、ラテン語、
ギリシャ語だか不明である。そこで、ザビエルの渡来は1549年だから、1614年のキリスト教の禁教令がでるまでの間、神父が本陣篠沢家に泊まったお礼と考えている。

1.2.3.4 の解説


1は、ラテン文字でM ではないか。お二人の見解も一致している。
2は、ラテン文字大文字のEとTを組み合わせたものではないだろうかとお二人の見解が分かれた。
しかし、ETと読めば英語のandとなる。
3は、ラテン文字のA ところで、意味するのはAuspice Maria「マリアの庇護の下に」のAという、すると、聖母マリアをさすシンボルになるという。
4は、ラテン文字小文字のeとtを組み合わせたもの。et と読めば、英語のandです。

以上のことから、
大魚先生は eMBA と読める。意味は Emaus となり、地名で、復活後のイエスが現れた場所。
  谷村先生は M ET A et で、ET Auspice et Maria が一組で 訳としては、「また、マリアの庇護の 下に」と読
めるとしている。


5.6.7.8 について

5は、ギリシャ語小文字のオメガ ω でないか。
6は、ギリシャ語小文字でイオータ τ ではないか?すると、ギリシャ語のイエスの頭文字は τ だから、イエスを指す。また、6 は判らない図案である。 説明図 1 の
ところで、参考の絵を挙げるが、下の説明図 1 の中央の部分、イエスとマリアの足元に〇が二つ見える。これではないだろうか、星みたいに見える物がある、 6 はこの〇2つ
だと考えられる。

説明図 1

中央のイエスとマリアの足元の○二つ。月と太陽が書かれている絵。これが 6 とする。
7は、ギリシャ語小文字でアルファ α           8は、ギリシャ語小文字のクシー ξ キリストの頭文字ではないか。

4.5.6.7のまとめ
そこで、4.5.6、7 は、 iota alpha ksi omega が一組だと思え、「始めであり終わりであるイエスキリスト」となるかもしれない。


9.10.11.12について
魚のように見える図柄9.10.11.12は、中国明時代の皇帝と皇后の王冠ではないかという。

9と11
  現在でも中国では結婚式などで 9 と 11 のような帽子をかぶる。

10と12について 
(下の写真)明時代の冠、   徐光啓とマテオリッチ(右)

教科書にも載っている、徐光啓とマテオ・リッチの図、
この図は民の時代で、徐光啓は明の高官で、カトリックの信仰をもった。そして、この後、イエズス会は中国から退去させられる。このような事件を背景にイエズス会士は巻物に
ある布地を持って、日本に渡ってきた可能性はある。



説明図 2
なお、説明図 2  のデザインは、真ん中の漢字はイエスである。そして、漢字の下に十字、さらに下にイエズス会のマークと、このデザインの作り方は「巻物」のデザインと
酷似している。

巻物が岩村田宿にある背景
「巻物の所持者は篠沢家である。」と書いた、そこでキリシタンに関係のある巻物が篠沢家の家系図の表紙となったかを推定しようと思う。篠沢家の先祖は中仙道の岩村田宿で、代々
本陣の役割を任なっていた。そこで、旅人(ここでは、神父)の世話をした縁で頂いた布地だろうと推定することができる。巻物に中国の帽子が描かれている事から、明の末期、典礼
問題に関係して、中国を離れ(明の時代)イエズス会の神父が中国から日本に持ってきたのではないかと考えられる。
年代は、大魚氏、谷村氏の推定から天正年間〜江戸時代の初期、禁教が行われる前とした。年代を書けば関ヶ原の戦いのあった西暦1600年から禁教令が出る1614年の間ではないか。
なお、これらの項目を書く時に長野カトリック教会から出された、「信濃のキリシタン」を参考にした。なお、この小冊子は絶版である。(序文をH・チースリク神父が書いておられる。)

ザビエルとその時代の為政者
1549年(天文18年)8月15日にフラソシスコ・ザビエルは、トレース神父・フェルナンデス修道士及び日本人アンジロー等を伴なって鹿児島に上陸した。これがカトリックによる
日本布教の始まりである。敢えて、強調したいが、日本に入って来た最初のキリスト教はカトリックの教えである。従って、キリシタンとはカトリックの信徒である。
 ザビエルは、日本の布教について、「先ず天皇に謁して日本の布教の許可を得、日本教化の大業を進めようとかんがえていた。」という。彼は時期を見て、平戸、山口、堺を経て
1551年(天文20年)京都に入った。しかし、戦乱のため京は全く荒廃していたという。ザビエルは天皇にも将軍にも謁することができなかった。
ザビエルは2年後に日本を離れる。ザビエルの後を継いだのはトレース神父である。この神父は生涯を日本の布教に従事し、日本で亡くなっている。(私はトーレス神父の評価は
もっと、あっていいと考えている。)

織田信長の時代
 1568年(永禄11年)織田信長は足利義昭を奉じて入京した。その翌年トレース神父は、高山右近及びその親友和田惟政の助力によって入京する事が出来た。そして、信長は
キリスト教の布教の許可を与える。信長はその後比叡山を平定してからも、引続きキリスト教の布教の保護を確約した。こうして、キリスト教の布教は順調に進んだ。
1570年よりトレース神父の後を継いだのはフランシスコ・カブラルです。カブラルは来日すると、すぐに日本の教会を見てまわりました。当時の日本は織田信長の権力下にあっが、
彼はキリシタンに好意を示しており、信長との謁見をとおし、布教の発展も勢いよく伸びていった。
1575年には、オルガンティノやルイス・フロイス、高山右近父子をはじめ五畿内のキリシタンと共に、有名な南蛮寺を建設している。また、布教を保護してきた大友宗麟も1578年、
カブラルの手で洗礼を授かっている。 この頃、日本のカトリックの信徒は約3万人ぐらい居たと言う。しかし、10万以上の信徒がいたと言う確かな説もある。
カブラルは、日本文化への適応策には批判的であったという。そのため、日本人のイエズス会士に対して厳しい態度を取り、会員たちに日本語の習得も勧めなかったという。
そのため布教長側近の間では、会員同士の心情的対決が次第に深まっていったと言われる。

ヴァリニヤーノと天正遣欧使節
 1579年7月、巡察師アレッサンドロ・ヴァリニヤーノが来日し、日本教会の不統率を見て教会改革を実施しはじめた。巡察師ヴァリニャーノには、イエズス会総長から布教地の困難な
問題に対し、対策をとる権限を与えられていた。こうした権限を持つヴァリニャーノ神父は日本布教の現状を次々と改革しました。そして、イエズス会の経済的基盤(貿易充実)まで
施したと言われている。
役目を終えて、ヴァリニャーノは1582(天正10)年二月に帰国することとなった。この時に大友、大村、有馬のキリシタン大名の協力のもと、ローマへ名代使節を派遣する事に尽力した。この使節派遣が天正遣欧使節である。
そして、四名の少年使節と同道して長崎を出帆した。しかし、使節団が派遣された年にカトリックの守護者信長は本能寺で非業の死をとげた。ちなみに、本能寺と南蛮寺は目と
鼻の先にあった。この本能寺の変から西日本全域に発展を続けていたキリシタンの上に暗雲がたちこめたのである。

豊臣秀吉
信長の没後、豊臣秀吉は1582年(天正10年)に明智光秀を討ち実権をにぎった。秀吉は最初の頃、キリスト教を容認していたので、秀吉の保護のもとにキリスト教も発展し、1585年
(天正13年)には布教の最盛期を迎えたようだ。
日本の管区長はクエリオ神父に変わった。彼は随員を伴なって1586年(天正14年)に新任挨拶かたがた大阪城に秀吉を訪ねた。秀吉はこれまでにない好意的な保護を与えたという。
 けれども、この謁見成功の中に大きな危険がひそんでいた。
秀吉に会見したクエリオ神父は、秀吉の九州征伐に九州のキリシタン大名をすべて味方につけることや、また、中国の遠征計画があればポルトガル人の援助ができることを言上した。

これらの話から、秀吉はクエリオ神父が、いかに九州の政治的、軍事的な事柄に関与していたかを悟り、以前から神父たちに領土的野心があるという疑惑を持っていたので、
その危険性を一層、たかめるに至ったのではあるまいか。
秀吉は、1587年(天正15年)、九州征伐の帰途、突然神父の追放令を発した。また高山右近などには信仰を棄てるか所領を捨てるかを迫った。それから3年後、1591年(天正19年)
ヴァリニャーノ神父がインド総督の書状と贈物をたずさえて秀吉を訪問した。これで、カトリックに対する秀吉の気持ちは恢復したかのように見えた。しかし、大きな事件が起きた。
1596年(慶長元年)イスパニヤの商船サン・フェリツペ号が土佐の浦戸に漂着し、秀吉が同船の積荷を没収したところ、その水先案内人が「布教は領土的征服の予備行為である」
との発言をしたからである。
秀吉は、やはり神父たちは領土的野心があると思って激昂し、翌1597年(慶長2年)長崎西坂で神父、キリシタンを処刑した。これが日本二六聖人の事件である。ここで、
注意すべきは、キリシタン弾圧は徳川時代に始まったのではなく、秀吉からだと言う事である。ある意味では、徳川は秀吉の禁教政策を踏襲したと見る事が出来る。
なにはともあれ、その翌年、朝鮮戦役の最中、秀吉は伏見城で他界した。

信濃と神父の通過
1605年将軍職を辞した家康はその翌年、セルケイラ司教を盛大に迎えた。さらに翌1607年イエズス会の管区長フランシスコ・パエス神父にも同様な栄誉を与えた。この謁見が
無事に終わり、一行が京都に帰る時にパエス神父一行のうちの神父と修道士が中仙道を通った。そして信濃の布教が行なわれたという説がある。
イエズス会年報に次のように報告されている。「・・・家康との訪問が可成り成功し、管区長は異なった同伴者と来た道を通って出立した。その理由は、ロドリゲス神父が伊豆半島の
鉱山を視察するため・・・」、「他のパードレは、修道士と共に上野(こうずけ)地方にいた数人の信者を訪問するために出立した。」とあり、ロドリゲス神父が群馬県に行った
様子がかかれている。また、神父たちの滞在地は群馬県沼田である事が判った。この沼田の地は、真田氏の本拠地であり、現在キリシタンであった人々の過去帳、類族帳やキリシタン
遺物が次々に発見されている。
なお、日本のキリシタンの研究家で知られるH・チースリック神父によると「ここに登場する神父は、イエズス会管区長パエス神父、ロドリゲス神父、京都修院長モレホン神父、
及び日本人修士三人を同伴している旅だ」と著書に書いている。そして、チースリック師は、「ロドリゲス神父は一修道士と共に伊豆半島を廻って鉱山を視察している。
パエス神父はまっすぐ小田原・静岡経由で帰っている。結局信濃を通った神父は京都修院長モレホン神父と一人の修道士であったということになる。」と記している。

浅間山描写
さらに、イエズス会年報はさらに続く。「戒めを正確に守るように努め、又善業をしているという事で信者らを慰め、信濃の国に旅を続けた。この国は有名な山の中にあり、この山は
時々小石まじりの多量の火をふき、それは遠くまで飛び、周囲の人々にも又近くを通る人にも非常に危険である。」と浅間山の描写をしている。

こうして、江戸から、上野(こうづけ)、信濃の国に訪れた事が判る。また、資料によって、神父達が浅間山を経て信濃国を通過した司祭がいたことは間違いない。恐らく、一行は
中仙道を経由したと推定される。その旅で、中仙道を通り、岩村田宿に宿泊したのではないかと想像される。

禁教令
徳川幕府により禁教礼が発せられるのは1614年とされている。この時家康はすでに将軍職を秀忠に譲っている。そして幕府のキリスト教に対する敵意ある政策は電光石火のように
現われ、諸侯にも反映していく。こうして、江戸から方々の地方で絶えずキリシタンの鮮血が流され、殊に肥後・平戸・山口において甚だしかった。
更に家康は特に高貴の人々がキリシタンになることを禁じたので1600年以降現職の大名として受洗したのは京極高知の兄高次だけ(1602)であり、表だってキリシタンを名乗ったり、
それに親しんだりする者も漸次影をひそめ、従って集団洗礼も行なわれなくなった。教会もわずか京都、大坂、長崎の三ケ所に限って黙認されたのみで、有馬・大村の教会などは
司祭の駐在所は認めず、何時でも断圧の危険にさらされた。
 このような幕府の態度は、日増しに厳しさを加え、1610年(慶長一五年)のマードレ・デウス号事件、1612年の岡本大八事件


などが発端となって、「伴天蓮門徒御禁制也」の幕府直轄領でのキリシタン禁令が発せられ、翌々1614年(慶長一九年)一月には、迫害令まで発布されるまで発展した。
 こうするうちに、大阪冬夏の陣が起り、家康は豊臣氏撲滅に全力を傾注し、キリシタン追及は一時その手をゆるめられたが、1616年(元和二年)に家康が死に、秀忠はキリシタンに
対して一層強力な態度で臨み、「伴天連門徒」から「下下百姓以下に至る迄」の禁教を布告して迫害を強化し、外国船の人港も長崎、平戸に制限した。宣教師といささかでも
関係を持つこと、特に彼らに宿を貸すことは、厳禁され、これを犯した者は処刑の上、財産の没収、刑罰は罪人の妻子は勿論、訴人を除く隣近所5軒のものまで及んだ。
こうしたキリシタンの激しい弾圧のため、次第に表面から姿を消すようになり、それを壊滅するために幕府の意図にもかかわらず、その目をかすめて国外から潜入する宣教師と
信徒だちとの巧妙な連絡網による集団が形成された。しかし、キリシタンは地下潜伏の状態に変ったのである。
 またキリシタンたちは家をたたんで地方へ転出して行く者が次第にその数を増した。これらの避難先として、山深い信濃の地を選んだ者も相当多かったのではないかと考えられる。
しかしその業績はつまびらかでない。


信濃に訪れた神父
来日した神父達はきちんと、自分たちの行動をローマにある修道会の総長に連絡をしていた。そこで、日本滞在の神父がローマに送った興味ある報告がある。ロドリゲスという神父は
火を噴く浅間山の様子をローマに書き送っている。また、ディエゴ・パルド・メンブリラという神父がいた。この神父は慶長17(1612)年日本に布教の任務を帯びてやって来た。
しかし、江戸幕府の大追放令で捕まり投獄され、元和二(1616)年、国外追放にあった。ところがこの神父二年後に再び隠れて日本にやって来たのである。そして、長崎から山形を
中心に布教に従事していた。その任務の最中に陸路、中仙道を通った。そして、ローマに向かって、次のように報告をした。「松代には行かなかった」何故、松代に行かないと
わざわざ、報告したのだろう。おそらく、江戸の初期、松代には多くのキリシタンが居たからだろうと考えられている。また、キリシタンを調べている研究者の中には真田家は
キリシタン大名と言いきる人もいる。禁教令が出されたのが1613年とすれば、この間、長野県には、九人の神父が訪れている。この、神父達が布教をしたかと言うとそれは判らない。
恐らく目的の場所に行くために長野県に走っている街道を通過しただけかもしれない。
本県は八つの県に接していて、飛騨・美濃として岐阜県、愛知県に接し、遠江・駿河が静岡県、甲斐が山梨県と接している。さらに武蔵・上野と言う国が埼玉・群馬県と接し、越後、
新潟県と接している。旅人はアルプスを超える事が無いが越中富山県とも接しているのである。従って、江戸または越後・東北に出かけるには長野県を通過しなければならない。

岩村田宿に滞在した可能性のある神父
メンプリラ神父、デイゴ・結城神父、デエゴ・結城神父、メンブリナ神父、アンジェルス神父、エルキア神父、カスイオ神父、ジヒヨエオ・パロマレス神父と信濃に訪れている神父の
記載がある。


上野と言う国が埼玉・群馬県と接し、越後、新潟県と接している。旅人はアルプスを超える事が無いが越中富山県とも接しているのである。従って、江戸または越後・東北に出かける
には長野県を通過しなければならない。

岩村田宿に滞在した可能性のある神父
メンプリラ神父、デイゴ・結城神父、デエゴ・結城神父、メンブリナ神父、アンジェルス神父、エルキア神父、カスイオ神父、ジヒヨエオ・パロマレス神父と信濃に訪れている神父の
記載がある。


参考文献
日本史小百科  キリシタン 編者 H・チースリク、太田淑子  東京堂出版  平成11年9月
バテレンの道  岡田章雄  淡交社 昭和45年
歴史家夜話   岡田章雄  山川出版  昭和55年
信濃のキリシタン  長野カトリック教会文化部 昭和35年
信州の旅    信州の旅社  昭和50年〜57年までの号
宿場町     芳賀 登 桐原書店 1977年
かくれキリシタン  片岡弥吉 NHKブックス
教科書 世界史  山川出版 2000年
街道をゆく    朝日新聞 昭和52年
カトリック教会  情報ハンドブック 2013年
日本史 東洋文庫 1980年
長野県の歴史散歩  山川出版 1980年
世界の宗教     村上重良  東洋ジュニア文庫   1992年
世界がわかる宗教社会学  橋爪大三郎 ちくま文庫  1998年    


























■伊勢神宮への献上料理の献立。 14/12/23(火)08:17:35
私の八代前の先祖篠澤滋野包道が伊勢神宮御師福島鳥羽大夫へ延享三年正月六日に献上した料理の献立です。
三宝:のし、米。御座付:御吸物鯉:青な、氷豆腐、ふくさ味噌。御銚子:御さかな:但し巻きするめ、きじ、やき鳥、だいこんにて引く。ちょく:あわび、
生姜酢。本膳:なます、あら、くり、しょうが、にんじん、唐のいもくき。汁:豆腐、かまぼこ、しいたけ。煮物:手いも、焼くり、とうささげ。
御めし。  ちょく:岩たけ、くるみぬた。汁:真たら、こんぶ。  香の物。引而:さしみ ひらめ、やき玉子、いり酒にて。  平もり:鴨麩、にんじん、
しいたけ、ねぎ、くずたまり   焼物: ぶり、えび。  せりふき:ただし重にてひく。 御吸物:包み玉子、のり、柚。 御肴: あさりかい、
からしにてあえ。御酒:さかなさかな。御菓子:いろいろ。めでたく。

12月の佐久の行事 14/12/16(火)19:52:08
■汚年 ヨゴレドシ 。
佐久では12月13日に汚年 ヨゴレドシという風習を行います。すすはらい、神棚清掃、若水を汲む井戸や泉を掃除します。なお清掃は神棚が最初で台所や便所は最後としました。汚年が終われば、御歳暮を贈って良いとされました。

■御松迎(オマツムカエ)。
佐久の伝統行事の御松迎は、最も太陽が弱い冬至の翌日の12月23日に行います。山から松枝を切って来て、しめなわを作ります。山の松には、十日夜で送った田の神が
おられます。また稲藁は、田の神が宿ったものです。田の神は、正月神になるそうです。

■御足洗(オアシアライ)。
佐久では、大晦日の夜、ぬるま湯で門松の根元を洗い清めます。これを御足洗と呼びました。年神様が宿る聖なる松を清めるのだそうですが、戦後はほとんど姿を消した行事です。


■御歳取(オトシトリ)。
12月31日は御歳取オトシトリです。篠澤家では、オセチ汁(野菜をサイコロに切りスマシ汁で煮る)を作り神仏に供えます。また鯉(こい)を食べる
お宅も多いです。

■新年挨拶。
大晦日の夕方、家族一同で神棚と仏壇拝礼すると新年になります。大晦日でも「明けましておめでとごあした」と挨拶をします。この風習は明治頃までは佐久では常識
でしたが、戦後はほとんど無くなってしまったそうです。




■伊勢神宮杉木神官が江戸期に残した歌碑。 14/12/12(金)08:36:03

◎我が家には伊勢神宮祠官従四位上杉木宗大夫神主の歌碑があります。杉木神官は如子(じょし)の号を持つ歌人としても知られ安永二年に我が家に逗留し歌軸、
歌碑を残しました。「花は雨に散るとも知らで啼く蛙 如子」と彫られています。

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