佐久ホテル年表

当館の略史 室町時代〜
■応永 20 足利将軍家臣接待し足利義政より感謝状
       望月河内守光尚が拝領

■正長 1  大井家客将として光尚就任し根々井村
全部 山浦村と岩村田村一部 拝領

■寛正 1  御所より篠澤 ささざわ の読みを賜る
篠澤左京 駒形神社禰宜就任

■寛正 4  御勅使接待役賜る※詳細不明
■長享 3  足利源義植 芦田常陸助より感謝状
■天文年間  武田信玄より水晶軸と冠 拝領
■天正 3  長篠戦 篠澤伊賀守貞兼 戦死

■天正頃   手勢五百騎篠澤源佐衛門出陣
■永禄年間  鼻顔稲荷神社勧進同族望月源八ら
     瀬沢戦、蒲原戦に篠澤源太軍功
■永禄10  龍雲寺約定 武田信玄書
■永禄年間 川中島戦武田家文書に篠澤新九郎
■慶長 5  徳川秀忠軍を攻撃 陣場に
       篠(笹)澤地名
■慶長11  ロドリゲス神父より切支丹聖布拝領

■慶長19  大阪陣出兵篠澤右京ら
■慶安元年  小諸城主に献上鯉料理
■寛永 1  用水開発 篠澤用水 笹沢水源
       岩村田用水 笹沢 等名称

■元禄 3  岩村田祇園祭 御振舞記録
■宝永年間  徳川家宣に進物贈呈 感謝状
■寛永10  海誉上人逗留 御軸拝領
■享保 5  吉田神社階位拝領
       篠澤佐吾衛門包淑

■元文 2  八条常雅 書状
■延享 3  伊勢神宮福島鳥羽大夫
       佐久鯉料理献上 石碑

■寛延 3  岩村田藩主 法事料理献上
■宝暦 2  木食上人逗留 御軸拝領
■宝暦 5  十ニ神社神祠寄進
       篠澤佐吾衛門包淑  

■同年    伊勢町奉行 料理献上
■宝暦 9  岩村田藩主 料理献上
■宝暦13  伊勢町奉行 料理献上
■同年    福島肥後守 昼食献上
■安永 1  伊勢神宮神官杉木宗大夫逗留
       歌軸 歌碑

■天明年間  徳川家斉 進物贈呈 感謝状
■寛政 6  岩村田藩主 蕎麦献上 二度
■享和 2  太田南畝 宿泊
■文政年間  小林一茶 宿泊 歌碑
■天保13  葛飾北斎 向島花見之図

■天保12  仙石讃岐守 宿泊
■天保年間  老中井上正春 進物 感謝状
■天保年間  岩村田藩主内藤豊後守 梅植樹
■嘉永6   水戸藩御為替承
■嘉永年間  徳川家茂 進物贈呈 感謝状
■安政年間  徳川家定 進物贈呈 感謝状
■文久 1  皇女和宮御降嫁時臨時
       御休憩処指定 調度品

■文久年間  徳川家茂 進物贈呈 感謝状
■慶応年間  市川萬庵 掛軸拝領 詩碑
■慶応年間  老南堂 歌額拝領 歌碑
■幕末    西郷隆盛 木戸孝允 大久保通利
       溝口桂巌 連書漢詩 経緯不明

■明治初年  晩香桜 太米楼 御料理さた 篠澤旅館
       佐久公会場 酒蔵 旭湯温泉等経営

■明治 5  初代岩村田戸長篠澤豊太郎就任
       後 町議会議員

■明治 7  割元職と郷宿役篠澤家返上
■明治11  三条実美 書状
■明治15  利根川蒸気船いろは丸
       篠澤豊太郎ら就航

■明治17  陛下専用室造営 佐久ホテルと命名
■明治31  島崎藤村 逗留
■明治40  柳田国男 宿泊
■大正 2  犬養首相 佐久ホテルで講演
       千二百名…信濃毎日新聞記事

■大正10  北原白秋 宿泊
■大正年間  若山牧水 逗留 歌碑
■昭和 5  荻原井泉水宿泊 歌軸 歌碑
■同年    御寺泉湧寺 僧正逗留
       御法軸 木札等 拝領

■昭和11  種田山頭火 宿泊
■昭和17  佐藤春夫 長期逗留 専用室建設
■昭和17  海軍岩村田飛行場建設にて
       農兵隊専用宿舎に
■昭和18  皇室 新嘗祭 米粟 献納
■昭和20  家宝名刀備前長舟長光 GHQ接収
■昭和60  新館完成 株式会社化
■平成11  二百数十年ぶり伊勢神宮佐久鯉料理献上
■平成12  当館 江戸期一月六日佐久鯉献上史実から
       一月六日 佐久鯉誕生日 認定

■平成15  ギネスブック 鯉料理ひとすじ400年
       として登録申請
■平成16  高円宮殿下 御成

※年表は資料発見などにより修正される場合があります。正式な歴史と合致しない部分もあります。
他にも諸説が存在する場合があります。



( 2022/05/24 )

篠澤家一部古文書紹介 ※佐久市教育委員会調査分資料紹介
篠澤家一部古文書 ※佐久市教育委員会調査分の資料のみ紹介


1  寅年五月岩村田町役人より諸商人、太物屋、小売穀屋、車屋、旅籠、諸職人、同庵稼者、髪結、銭 湯、作方奉公人、材木、釘類、菓子類、指物屋、作り桑、
   等々公定値段申渡書

2  文政四年九月、更級一件返答。更科左門より借用の金子返情難混等左門より訴訟されたが困窮のため致し方ないので岩村田役人呼出横和百姓吉右衛門より評定所宛
   猿久保、市村の件

3  文化十四年二月。当宿次郎兵衛江戸表豊前様江願書。助郷引合人馬出入宿料城押掛際代官早々取引差略望通町役人役所役人取り合わないので町役人困り本家へ
   願い出た嘆願書。元年寄次郎兵衛より本家役人宛岩村田町

4  天保九年十月より十二月の日記帖篠原呉一郎

5  天明五年八月村人死人書留帳岩村田宗門帳減人資料名主

6  弘化二年四月出先人別引請連印帳岩村田町へ出稼住居乃者は必ず引請人請書をとっておくこと岩村田町役宛

7  天保十年二月二十七日願書書付奉願上候 高崎倉賀野へ賃馬稼許可願 馬宿は坂本宿だけでなく松井田宿でも泊まれる様にして欲しい 御影代官所七七ケ村
   牧野領分二十二ケ村より道中奉行へ願書

8  宝暦九年九月二十六日神主出入百姓騒動覚。岩村田住吉大明神の神社の森の木を無断伐採したので神主より訴
   宝暦十二年正月十五日百姓騒動覚。騒動在歌(落首)

9  明治五年十月二十一日〜十一月三日の岩村田篠澤包実の懐中日誌

10 天保四年三月吉日郷中酒御通清水屋多右衛門より

11 嘉永六年十月五日出府道中日記
 
12 戌年四月十五日深谷遠江守様御差紙一条呼出状拝宛書

13 慶安二年二月二十六日慶安御触書

14 安政五年三月十四日出府二附萬瑞日記同月二十三日

15 文政四年九月今里村一件返答書更科一件古証文之名前書

16 嘉永三年正月吉日、三月十九日依十二月二七日篠澤包隆

17 元禄八年差上申口上之事他十通 田用水堰取継一件 百姓共より代官所宛

18 文政八年十一月尚平より差出候一札下書 小田井宿より岩村田前田原を相手用水蟹沢堰出入際尚平に不敬の事あり一件落着不能となった為に身分はどうなってもよいが部落
   百姓救済とりなし願。尚平より龍雲寺隠居宛

19 文政八年十一月惣代より差出候書付小田井宿より岩村田前田原を相手用水蟹沢堰出入際尚平に不敬の事ありて一件落着不能となったので願人六十六人者はどう
   なってもよいから一件手切のお裁許と尚平へとりなし願書岩村田町惣代六十六名より永平寺哲丈大和尚宛

20 文政二年十月吉日御愁訴小田井村岩村田前田原用水堰取継訴訟一件
 
21 文政五年二月二十一日更科左門落着一件

22 宝暦十二年正月町中騒動之節覚書篠澤長八

23 元禄十一年正月吉日岩村田町萬御廻状

24 宝暦十二年正月吉日筑後と町方出入二附覚書篠澤佐五右衛門内

25 文政二年閏四月岩村田役所宛申渡兼五町定書請印帳田用水取継申渡書百姓四百三十人連印

26 嘉永四年十二月岩村田藩非常手当積殻帳 藩主より非常手当米の元立として籾五百俵支給、村々毎年不足として積置非常用とする事岩村田他二十五ケ村
   
27 元禄十三年正月岩村田町兼町数家数古城跡書上帳岩村田問屋名主役人より御代官宛

28 明和七年十月前々御帳外者兼欠落者書上帳岩村田町名主役人より役所宛

29 文政十三年八月信州佐久郡岩村田町穢多人別帳

30 文政二年八月信州佐久郡岩村田穢多人別帳堅帳

31 天保十年三月出稼人別請人受印帳

32 嘉永七年八月信州佐久郡岩村田町宗門人別御改帳龍雲寺

33 安政五年八月信州佐久郡岩村田町宗門人別御改帳龍雲寺

34 天明四年八月信州佐久郡岩村田町宗門人別御改帳禅宗龍雲寺四冊之内壱

35 宝暦十一年八月二十九日岩村田町帳外者書留帳

36 元禄七年二月信州佐久郡岩村田町宗門人別御改帳

37 安永三年八月御仕送金借用証文

38 明和九年二月二十三日岩村田町卯天銭書上帳

39 寛政三年二月岩村田町成夫銭書上帳

40 元文五年御公儀より夫銭帳御案紙

41 文政四年五月十七日見舞受納帳

42 明和七年八月村々数年カサネヲ助成可相成手段被イ卯渡書

   村々で数年収納之際租麦一部を貯蔵し火難水難等困窮百姓助成になるよう指導書

43 元禄八年二月年々御拝借目録之覚

44 文政四年六月二十二日金銀出し入れ其升諸色支書留帳

45 文政十一年六月岩村田村御貸付金拝借添証文

46 嘉永四年八月御領分非常御手当積穀帳雛形

47 安政五年十二月十六日岩村田御年貢献金大割雑用其他目録帳篠澤佐五右衛門包隆

48 寛政三年九月十四日御土蔵普請諸入用帳岩村田佐五右衛門

49 文政四年六月二十八日金銭出入諸用帳岩村田役元

50 享保二十年二月寅之天銭帳岩村田宿問屋名主惣代役人より御役所宛

51 天保四年十二月二十六日極難之者拝借米貸付人別帳岩村田町役元

52 正徳五年三月口上覚。岩村田宿問屋跡式出入一件

53 文政九年十二月十五日去面十二月割以後依当戌十二月十日迄二十四ケ村大割合天銭帳岩村田町割本晋平

54 寛政六年六月六日御上屋舗御用飼葉藁延割合帳

55 応永五年十月二十三日大内吉廣追討足利義勝檄文巻物

56 応永二十年九月十日畠山重成宇都宮参河内守追討足利義政檄文

57 永禄十年八月七日敬白起請文之事大井幸助、小林図書、小林新助、小海宮内介、土田士郎左衛門、臼田佐渡守、小林五郎左衛門より
   吉田左近助、浅利右馬助両名宛

58 五月二十二日藤堂大学頭より酒井日向守宛。一筆致啓達候在所之物候之間戻子肩衣十令進覧之候描期向顔之時候恐皇謹言五月二十二日高次花押
   
59 六月二十四日将軍へ差上げた暑中見舞の礼状。松平右京太夫輝高より内藤美濃守宛

60 永禄六年四月朔日奉再興西念寺本尊阿弥陀之像彩色之事

61 貞享二年六月十一日佐久岩尾村の内四十石寺門前林等免除上記岩村田竜雲寺へ慶安元年の通り寄進

62 元禄元年十二月二十日飯沢村龍顔寺庵料に付置芝間紛争一件付元禄四年八月十日飯沢村名主書状

63 元禄三年二月乍恐書付を以奉願候御事。岩村田若宮、祇園長土呂近津大明神神祭料として夫夫先代通り祭礼免候致したく願書
   岩村田長土呂惣役人より新岩村田陣屋代官太田作之進宛

64 元禄十年三月二十一日乍恐書付以奉願随意奉□之事龍雲寺大忠より御役□中宛享保二年写す

65 元禄十年四月四日扱証文之事瀬戸村八幡宮と諏訪明社、社参の際、打鳴ぞめには争論となり両社勤番へ神主善之丞が仲に入り日をきめて
   交互に打鳴初をするようにきめ相互証文取り交わすよしの文書は岩村田より瀬戸村宛

66 元禄十年六月岩村田 祇園祭の御舟、踊、踊習場につき各町町詳細取り決め書

67 元禄十四年七月二十八日 寺社奉行所より指紙の通り出頭する旨の返答書 丸山小太夫より役人宛小太夫を必ず出頭させるという名主両名奥半あり

68 元禄十七年正月十五日 岩村田西念寺と高野町往生院にて出入となっており往生院は増上寺の末寺になったと言っているが西念寺住職が
   が増上寺へ掛け合いに行ってくるから帰るまで往生院の判形は受け付けないよう願書。西念寺専譽より内藤藩奉行所宛

69 元禄十七年正月 七ケ年以前迄岩村田西念寺の末寺であった高野町の往生院が宗門改の節増上寺末と言い出したが増上寺の真意を聞かせて欲しいという書状
   西念寺専譽より増上寺御役者衆中宛

70 元禄十四年正月西宮免状岩村田町丸山小太夫如恒はえびすもりの家業を務めること若て免許の無いものが行ったら吟味を遂げる。摂州西宮夷社中西久晴より

71 元禄十五年十一月二十四日。一、月牌免として寅新田中川原高八升四合之田壱枚之内 二、両親忌?として金一両二分上記請取書。善導寺より青木市兵衛宛

72 宝永二年正月十六日 長久保与三兵衛、望月村庄右衛門両名の者を相手にしないよう廻状 一日市場村他より前山村他十三ケ村宛夷守仲間か

73 宝永二年二月 神事舞太夫家職梓神子家職。標願家職免許状幸松勘太夫より岩村田三之丞宛

74 宝永二年三月二十八日信州えびす願人の事。梓神子の職をつとめる者を公儀よりおたずねがあったので通知する幸松太夫より信州名主中宛

75 宝永二年四月五日六日 信州えびすもり梓神子の職をつとめているかとの公儀からのおたずねとのこと、故を調べたところ小太夫はすでにやめている。
   弟の門助、三之丞がわけも知らずに渡世のためつとめているが停止せよとの事なればととめをやめさせる岩村田名主中より幸松勘太夫宛

76 宝永二年五月十六日 門助、三之丞へ梓神子職がつとまるよう支配帳面へ裁かせてもらいたい岩村田名主より幸松勘太夫宛

77 巳年七月十八日 中西平次右衛門の訴により伊賀守宅区にて寄合のため出頭すべし日向守ほか三名伊勢山村竹田伝助ほか二十一名宛

78 宝永二年七月 観音奉賀金請取覚 龍雲寺三十三番之観音

79 宝永二年九月 権兵衛、角兵衛口論喧嘩なれど仲間の衆立入 和解となり権兵衛より証書

80 宝永二年九月十八日 平賀新町にて危ない出入あり内証 近所迷惑かけお詫びする 岩村田えびすもり伝兵衛より名主年寄


81 宝永二年九月十八日 権兵衛と佐久の平賀の新町の角兵衛が口論出入のさいに紋助は角兵衛と縁者なので三之丞と紋助に立入り内証に情けすようにいわれたが
   紋助が立ち会わないの手錠つけられ詫書 紋助より岩村田文左衛門ほかあて

82 宝永四年七月五日 当年立会銭五百文滞ったので江戸寺社奉行所へ出頭の差紙を渡したところ殺銭を受取ったので江戸へは出頭しなくも宣○西宮
   平宮平次左衛門 内山木左内より丸山小太夫宛

83 宝永四年七月五日 当年立会銭五百文滞ったので江戸寺社奉行所へ出頭の差紙をわたしたところここで殺銭を受け取ったので江戸へは出頭しなくも宣○西宮
   平宮平次左衛門 内山木左内より丸山小太夫宛の写し

84 宝永五年 正月十二日 岩村田町若宮八幡、新海大明神両社の祠官免状拝受のため上京致したいので添状願い書神主柏原より

85 正徳四年正月小太夫近年病身だがせがれ源七無調法者なので何様誰を小太夫跡継にねがいたし小太夫、三之丞、源七連名 浦の村兵左衛門より岩村田役人宛

86 正徳五年六月十七日 岩村田祇園祭礼祇園神輿御舟行事次第 名主年寄より役所宛

87 享保二年六月十日 岩村田祇園祭礼行事の件で今宿を訴訟の一件あら町名主組頭一同より役所役人宛

88 享保二年六月十二日 岩村田祇園祭礼取継一件為取替証文 大町喜右衛門外よりあら町左五右衛門内外宛

89 享保二年六月十九日 岩村田祇園祭訴訟の件相手喜衛門より簡単に詫びられたがこのままでよいのか役年の異論もあって困るので書付にしておきたく
   願書。あら宿左五右衛門一同より役所役人宛※信州佐久岩村田割本篠澤家文書。

90 享保六年十月 預ケ金請取証文上平尾守芳院隠居弟子文昌ほかより守芳院

91 享保二十年二月 岩村田龍雲寺焼亡につき建立金無尽掛金預り一札岩村田十太夫ほかより龍雲寺宛

92 享保二十年五月十八日岩村田祇園祭礼一日にして済ますように各町踊りは刻限を決め必ず次町へ渡すように請書岩村田惣役人より役所宛

93 文文?二年六月十七日岩村田祇園祭礼踊は一日ですまなかったので以来必ず当日踊り仕舞いに致す請書 有宿名主役人より御役所宛

94 元文六年三月摂州西宮本社直支配神職宗門改帳 岩村田西念寺旦那丸山内藤家内書抜

95 寛保元年七月 岩村田祇園祭先規の通り相違なく執行の旨の誓約一札あら町大町両名主役人立入人より御役所宛

96 寛保二年五月 岩村田祇園祭礼違乱なきよう細部条々役所より

97 寛保二年十二月六日飯沼村の庚申座は往古龍顔寺の寺家慈済が庵寺として建てたものだが近年津ね右衛門と申す者が遠国者を差し置き龍顔寺より引き離そうとして
   いるが当寺の指揮に入るよう仰せつけられたく龍顔寺より岩村田役所宛

98 寛保三年三月十一日岩村田流雲寺殿堂焼失後再建資金無尽金貸付証文等御尋二附キ返答書岩村田金太夫左五右衛門より御役所宛

99 寛保四年四月二日佐久郡岩村田町龍雲寺殿堂焼失後再建資金之内下中込村又兵衛へ預けおき分無尽掛金整理残金請取清算済となった覚え書龍雲寺より上丸子村の
   七右衛門ほか宛

100宝暦三年九月御公儀より仰せ付けの二十一ケ条請書平左衛門他十三人より組頭百姓代宛

101宝暦六年四月殿様無尽掛金調かねるので拝借願佐久岩村田名主年寄より役所宛

102宝暦七年七月六日岩村田祇園祭礼神輿御旅上屋御舟飾の由緒の家々書上覚名主年寄連名

103宝暦七年五月十二日差出シ申一札「離縁届書」長土呂村市左衛門より岩村田割本佐五右衛門宛

104宝暦八年十一月本尊阿弥陀如来譲渡証文更科郡四谷村六郎右衛門より中氷金色村市平衛宛

105宝暦九年十月お尋ねにつき古来より由来の社書上覚岩村田名主役人より役所宛

106宝暦十年五月十二日高野山金剛峰寺月牌上人証、平賀村在住篠澤六左衛門寛永十九年正月十九日分蓮花定院より篠澤佐五右衛門包淑宛

107宝暦十一年二月岩村田若宮八幡免納対馬方江預ケ置分取上げられては請取神事の節の賄に迷惑するので尋問につき返答書一札岩村田問屋名主惣役人より役所宛

108宝暦十一年十月社家対馬に対する氏子との出入にて役所の吟味に承知して江戸おもてに出訴されたので村中氏子をやめたく江戸おもてにてお願い致したく村中
   連印した。惣百姓より問屋名主役人宛

109宝暦十一年十二月 一、八幡免の田質入の分返済するよう。二、若宮八幡祇園天王米十俵の中の三俵名主に取られているが返済。三、住吉明神の社木を無断に
   伐採しないよう。四、小作料勘定に神主を必ず立ち会わすよう。五、寺社の仁王は神主の支配より除かれたく。柏原筑後より寺社奉行所宛。
   乍恐以書付御訴言召奉申上候

110宝暦十二年正月覚書延宝八年六月四日岩村田神主役人より西尾隠岐守へ差上げた祇園祭礼書付写を差上げる岩村田町名主役人より奉行所宛

111宝暦十二年六月 昨年十一月十二月神主柏原筑後より訴の一件済口証文 柏原筑後岩村田問屋名主役人立会人より評定所宛

112宝暦十三年八月先祖より伝えられた書物を岩村田西念寺の寺弟子の悪流長老に表具に頼んだところ清左衛門が見たものか、他村にて右書物は相違している旨を
   申された由、来来返気の毒であるから清左衛門を召し出されて吟味願いたく佐五右衛門より役所宛

113天明元年閏五岩村田祇園神事祭礼に横根村猿窪村立入あり和談となる岩村田町惣役人役所宛

114天明四年十月龍雲寺表大門は東西側に田畑多く所持の百姓衆耕作の作場のようで物騒で困るので境内の内の内表大門の脇に歩行道をあけたい願書岩村田龍雲寺より役所

115安永五年六月五日岩村田祇園祭礼狂言の事で荒宿大宿異論となり公裁により祇園が取りやめになったが当年は殿様も在村であるので立入人、立入和解内情となる
   岩村田間や名主役人より荒宿名主役人宛

116天明四年十一月八幡宮神田上米代金年貢作徳未代金神主預りの積立金二百三十八両余は親筑後代より不如意にて家内へ遺込み表面ばかり勘定とはなるので家屋敷
   田地全部差出して勘弁願処家屋敷は残してもらったので自分すべて郷中のお取り計らいに従うこと。神主隠岐より問屋名主役人宛

117天明八年四月永代売渡申御道者師職式前書之事 御檀所信濃国佐久(野)郡総村数百五十一ケ総家数一万千百二十軒の持分三百両にて売り渡す証文福島主膳より西村八郎太夫

118寛政五年二月到着.戸倉十郎左衛門より割本、問屋、御役人中宛.八月十五日付手紙来訪して祝儀として樽肴頂戴礼状 包紙は福岳大陽氏より篠澤佐五右衛門宛

119寛政十二年六月十三日岩村田祇園祭礼華美になってきたが古来よりのしきたりに無いものは取りやめ練りの子供は絹布着用禁止、町の練り物は手軽にして神事
   練り物等ずいぶん省略いたすべし役所より岩村田惣役人宛

120文化十一年三月御神領書付共二質置ニ相渡ニ申田地添書付之事。質置証文惣左衛門ほかより留右衛門宛

121嘉永六年五月猿窪村の喜太郎相手取り新初切開地境出入一件内済証文 西念寺代名主猿窪村喜太郎より役所宛

122嘉永七年六月岩村田祇園祭禮につき厳しく申し渡条々役所より岩村田名主役人宛

123宝暦九年十一月三日氏子を守護する社はすべて書き上げるべし 仁王社や諏訪社、神明社の三社は書き上げもれとなりこれは柏原対馬の支配ではなかったので
   脱漏した理由であり他の社人の持にすべきと存ずるところなり 名主、問屋、役人より役所あて

124申年九月百姓一党へ御法度の条々役所より岩村田割本、問屋組頭宛

125寛保三年二月八日龍顔寺より訴えの庵は同寺末庵に給れないOO飯料、庵主、施主等に委細こころえ内済証取O飯沼村名主役人原組役人より源左衛門内外宛

126年代不詳佐久郡岩村田宿えびすもり小太夫跡敷とりきめ届出ケ書雛形

127申年六月四日六月十八日岩村田祇園祭礼九月二十二日明神祭につき飯料借用物についての仕末り書岩村田神主庄屋より両替七左衛門宛

128社人の対馬は祖先柏原織部の親類かとのおたずねにつき、織部が神職をやめたときに内育の清九郎と申す者に苗字を与え柏原対馬と申し神職を行っているが墓所も
   一緒にしてほしいと申したが断った岩村田町織右衛門より役所宛

129卯年三月七日角石O門七郎左衛門不審につき吟味申し付べく両人田地家財等につき打ち合わせ安藤右衛門渡辺武左衛門より庄屋宛

130四月五日先日手紙を出すも返事無いので委細不明の処、今朝正〇老母来て迷惑、了簡を早く知らせて欲しい春日村名主より岩村田問屋名主役人宛

131年代不明四月八日岩村田龍雲寺と康国寺隠居は同一人物か。二回も書状頂くが吉十郎より尋ねてないので引伸したが吉十郎によればそこもと康国寺隠居に金を預けてるとの事
   吉十郎母が来る様に吉十郎より聞かれてるが後は意味不明問屋名主役人より春日村名主宛

132住吉様御託宣 年不明

133岩村田の西念寺の七世称誉順可和尚履歴書 年不明

134御上屋敷松食芳覚年月不明

135雑書

136御遷宮御金甫布。布片在中 年月不明

137本社棟札 年月不明

138十月一日家督相続の祝儀として金200疋おくられたことと祝祠に対する礼状御師福島鳥羽屋太夫より岩村田名主年寄宛弟兵助(鳥羽太夫と相続)

139福島鳥羽太夫に不始末につき蟄居を命じ家督は弟兵助に相続させ御地檀家のご繁盛ご祈祷あい務めますゆえ宣言酒井貢外より佐五右衛門宛  

140正月十三日新年挨拶につき 一 岸本十左衛門下向の節に世話になった礼 二 祈祷料五十疋到来の礼 福島鳥羽太夫より 篠澤佐五右衛門宛

141福島貢外より篠澤佐五右衛門宛本文不明年月不明

142八月七日当地村中旦那名書帳面今明日中に塩名田丸山新左衛門へ届ける 篠澤源五衛門より高野山蓮花院使僧宛

143子年十一月二十六日当年葺替につき宇宮諸入用分勘定書由次郎より佐五右衛門宛

144手紙年月日不明折紙式文献

145藤枝丹波守取次控文書手紙控折合

146宝永四年七月五日西宮役銭併法度書連判滞り寺社奉行より江戸召出の指紙されたがここで済ませば江戸へ行かなくてもよくなり今後は決して遅らせない誓約書丸山小太夫より山木佐内宛 

147九月十九日福島鳥羽太夫里方請戻につき代表の者、伊勢へ参りかけ合い帰村したので廻文をもって知らせる猫又出金未納の村は早く届けるようにまた
   鳥羽太夫自信は当冬は檀まわりするとのこと岩村田佐五右衛門より与良ほか二十四ケ村宛 

148享和元年八月 明和八年西村八郎太夫へ金三百六十両にて売り渡した佐久郡川東村岩村田付惣担中この節買い戻してもらいありがたく子々孫々まで
   申し伝え忘却しないとの一札 福島鳥羽太夫より岩村田惣担中宛

149明和八年十月十五日福島鳥羽太夫より神職向当方へ引取拙宅にて万事取きめ調達するゆえよろしく願いたく挨拶状 西村へ八郎太夫より篠澤佐五右衛門宛

150元禄四年七月二十九日岩村田龍雲寺了山和尚遷化のあとまだ後住も決まらぬが決まったら重要行事あるので立会吟味すべく寺領山林田畑庫裏に至るまで吟味
   無住の間は火の用心夜番油断なく行う事 越後魚沼郡上田雪洞庵より岩村田竜雲寺閑居旦中宛

151宝永四年七月五日役銭受取書西宮平次右衛門内山木左衛門より丸山小太夫宛

152寛文ニ年法性院堤山信玄公法度押書

153宝暦十三年古書類書付写篠澤佐五右衛門より篠澤佐五八宛

154篠澤家由緒書大久保久乃書

155慶長十二年古代村絵図岩村田問屋役人より仙O太衛門宛中澤由之助

156寛政十年三月二十七日岩村田鋳物師伝左衛門が鋳物商売にて真継能登守より免許されたので書付写を上様に差上げたいとの事の由、名主総役人奥印して差上げた時の写

157天保七年二月二十五日在府中万事諸願書付向O日記獨聞覚O帳同年四月九日迄

158 一、小諸城主前録。 二、徳川家に対する甲信諸士の連署起請文。 三、平原氏甲府にて誄せられし始末。年月不明

159 建久四年卯月屋形配置分之事状折紙

160八月十三日信虎より長老宛。年号不明

161寛政二年十一月十八日佐久郡岩村田小三郎妹いくを改めたところ節ずれ等の庇は無い事を書付にて差上げる

162足利源義植公様御感状芦田常陸助様御感状年号不明

163文化九年小作証文之事佐惣次より更級左衛門宛

164酉年五月岩村田城主内藤美濃守人馬継方覚横帳

165酉年五月十五日御先荷人馬割入世話人帳

166村村諸役割高横帳

167正保五年三月十一日十八ケ村万事之刻横帳佐五右衛門 

168宝暦四年佐久郡村付高覚書岩村田宿横帳 

169寛政六年六月殿様御入国萬手口帳

170寛政七年五月二十一日当二十六日殿様御発駕ニ付人馬割合帳

171寛政九年四月五日御発駕ニ付人馬割付帳

172寛政九年四月五日殿様被為遊御発駕候節人馬割付帳

173享和元年五月二十三日御発駕之節人馬割合

174文化十年五月十三日御参府人馬割合帳割本佐五右衛門

175天保二年五月十三日仙石讃岐守様御登御通行被遊当宿御泊被仰付御本陣相勤候節諸用書留帳篠澤佐五右衛門宛

176安政二年五月四日仙石讃岐守様御帰城ニ付御泊被遊万事控帳篠澤佐五右衛門宛

177元禄十七年当殿様日記書留帳自元禄十七年但し宝永と改元至宝暦十年割本佐五右衛門控

178寛政五年御吉凶其外御領中御取計方重立候儀書大概自寛政五年正月元日至享和四年十二月二十日後閑元吉望月文司

179寛政九年閏七月大阪勤番御仲間面付帳善光寺東門町岩井屋権平より篠澤佐五右衛門出澤由次郎宛

180文化七年十一月御領分郡割高改帳役所より御領分村村名主組頭宛

181元禄二年九月六日手形之事 鉄砲改証文高野町往生院より岩村田浄土宗一行山西念寺宛

182元禄十二年七月二十九日売渡申田地之事往生院と出入にて差詰田地売渡証文西念寺より庄五郎宛

183元禄十二年八月二十一日往古より末寺往生院より三十五年以前先住勢誉が差出した末寺往生院の判は勢誉の謀判である由と訴訟されたがそのことは二十一年以前
   本山にて決着すみであるゆえいつでも本山へ上がり往生院と対決するゆえ論議願渡。西念寺より本山(知恩院)御役者衆宛

184永禄十二年八月二十五日 三十五年前先々住勢誉が差上げた本末御改の往生院の判本につきたずねられたが八月二十一日付書付を差し上げたが昨日また往生院旦那
   青山太郎兵衛がたずねられたよし二十一年以前この出入で欠落した往生院住持秀翁若し往生ならば皆一所に召寄られればありがたいことである岩村田西念寺より
   本山御役者衆宛

185元禄十二年九月六日往生院と二十一年以来本山へ出入のところ二十一年前には三十五年以前岩村田西念寺の先生住の勢誉和尚着帳差し上げ帳面に往生院は西念寺の
   末寺とあるのでその通り(二十一年以前)しておいたところ十七年以前その帳面は勢誉の謀判であるので往生院よりの訴状により取糸連ているが六役中様本山の御
   役者中様立会にて吟味されたがその判だけ嘘実は乱し難いので末四月直に小造たる類判たずねだして差出さなければいずれ本末の落着はならない旨伺うので一札申す。
   西念寺より本山御役者衆宛

186元禄十二年生蓮社岌往上人は往生院三代目住持にて往生院より岩村田の西念寺の開山である 三十九年前元祖上人法事の石切西念寺の勢誉が来て大誉和尚へ上京し
   西念寺の末寺にしてやるから家門帳へも西念寺末寺としても苦しくないとのこと。大誉OO後順可の代は末寺の勤なく秀翁替目の時上京本山の帳面西念寺末寺往生院
   旦那太郎兵衛となっており負けておったが太郎兵衛にきいたところそのような事は全く聞いていないとまた判を押したこともないとのこと。本山帳面の往生院判は
   正判とのことゆえ什物帳の判形、名主所にある太郎兵衛判形持参するので本山御了簡にて慈悲願い上げる高野町禅宗源七郎ほか往生院より知恩院役者衆宛 
   追伸岩村田西念寺隠居勢誉が往生院の似判を使用し本山へ書き上げたと申している

187元禄十三年正月岩村田西念寺と高野町往生院本末の出入につき門中扱申一札の事、郷中九ケ寺、往生院、源七、源七、清六連判

188元禄十三年四月 一、本山へ四十年間納めた利〇の往生院の判を削取は理不尽。二、小諸本町光岳寺で門中会合往生院に対して小造たる証Oの有無尋ねた処無の口書あり。
   以上にて往生院は西念寺末寺たるべきと決めてほしい岩村田西念寺惣旦中より京の知恩院本山役者衆中宛。

189元禄十四年往生院は岩村田の西念寺の末寺であり元禄十二年までは本末の法式をもってつとめさせてきたが十二年に往生院源七郎が上京して帳面の判面の判形は
   謀印なりと申されたがそれでは今までどこを本山としてきたか早く察整して西念寺末寺にしてもらいたい西念寺問屋名主惣役人より市川源右衛門役人衆宛

190元禄十五年十二月十九日往生院と本末出入につき京都へ相詰路金入用等に差言Oり借用十五両利金十両計二十五両は八年間に年租十俵宛返済証文岩村田西念寺住職専誉町役人法頭より

191元禄十七年正月往生院本末出入は六年以前本山にて着帳あらため往生院は西念寺の末寺たる事まぎれもなきこと。往生院源七、清六O沢甲訳なくなっていたが
   今度増上寺末寺になったと言っているが貴寺の尊意うかがいたく西念寺専誉総旦中より増上寺役者宛

192万治年中之頃十一月十七日江戸にて仰渡された御条目写二通差し上げる。御法度は必ず守るよう信濃の国中直末等迄触達すること知恩院役者源光院ほかより
   佐久郡岩村田西念寺ほか四ケ寺宛

193寛文二年正月二十九日岩村田西念寺と跡部の西方寺本末出入となり西方寺が末寺となったが西方寺の諸旦那は本山の直末にするよう西念寺へ意見したところ承知
   故今後双方入婚ねんごろにする様に申し渡す本山常称院ほか二ケ寺より西念寺宛

194二月十九日内々の事件で出府されたよし首尾如何か心配。寿光院へは取次頼んだので請書内外共に依頼する様。愚寺の法類に天神節性的と申寮坊主がおり是も頼んだから
   内証の聞合せも心易く頼んでほしい小諸光岳寺応誉より年号不明岩村田西念寺宛

195三月五日年号不明出入りの義不分明のところまたまた訴上さしあげのよし御苦労察す公事末落着でもまず帰郷犬?と総旦中も相談して清光寺ほかより在府佐五右衛門宛

196二月二十四日年代不詳龍雲寺からの書状拝見。御用にて衣屋善兵衛方へ来るようだが拙O所化寮という学ぶ所にいるのででられないのでこちらへ
   来てもらいたいが御用の節は善兵衛方より人をつかいに寄越し当方からも龍雲寺へ返事するようにたのみたい 増上寺玄通察察円より篠澤佐五右衛門宛

197三月四日年代不明手紙 一、鉄砲証文のこと 二、龍雲寺察円の件 三、御知行の件 四、金ニ両返金 岩村田喜佐衛門他より江戸佐五右衛門他宛

198年月不明手紙 すべて増上寺察円、玄通両僧より聞くように訴訟末落着にても一応帰国し皆で相談するのが最も良いと思う。龍雲寺より江戸の佐五右衛門宛

199年号不明二月二十八日 時に重要事項はないが家族、龍雲寺共に別状ない帰る時に察円より返事もらうように忙しいなら無用。龍雲寺より篠沢佐五右衛門宛

200年号不明十一月二十一日高野町の往生院につき当山直末で願出られたがこのことは駄目である。その理由は先年岩村田西念寺の末でもなく勿論当山末でもないむね
   御地門中へ申し送った書状の押判別紙の通りであり往生院よりどんなにたのまれてもこのかた毛頭かまうことはできないむね往生院へも申し聞かしてある。
   九膳院外六寺院より斉藤佐一右衛門ほか一名宛

201未年十二月十三日その支配ところの高野町の往生院が本寺がないので増上寺の末寺になりたいといってきたので願い通り末寺にしたから左様心得ろ
    増上寺役者寿光院経誉より斉藤佐市右衛門ほか一名宛

202六月二十八日年代不明 岩村田西念寺、往生院本末出入につき往生院源七郎上京し対決したいと願書しているが遠国のことでもあり双方住持旦那大勢上京される
   のは大義であるのでそちらでおのおの了簡によりよろしいようにとりあつかうのがよい 知恩院役者九勝院ほかより宝田寺ほか四ケ寺宛

203三月五日年号不明 一、増上寺役者衆は訴上の件たまわり下さらぬ様子、当方早速打寄詮議したが決まらない。二、察円と相談されたよし察円からも龍雲寺へ細々
   手紙まいり龍雲寺にても心に掛け相談にのってもらっている。三、鉄砲改め証文、判形、年数は元禄二年のもので本書を差越する。四、上記をみなで相談したが
   決まらず公事未落着でも一応は帰られたほうが良い。 五、堂木、せき 普請人足等の件 中沢吉三郎ほか三名より篠沢佐五右衛門ほか三名宛 

204戌年九月七日江戸路用其外割合覚廻状 八月八日から九月四日分 岩村田内佐五右衛門ほか一名より香坂村外九ケ村宛

205天和弐戌年天神宮建立に付大工六左衛門喜之助より詫文一通 太田作之進様御手代中より祭礼免に付御下紙併祭礼出入之節隠居源五衛門方より佐五右衛門方へ
   江戸へ遺申候書状写上原与惣兵衛子平兵衛甚五衛門より書状あり

206牛年四月二十五日このたび代官が替わるので受取られた代官衆へ御見舞なさるそうでしょうがその時はよくおたずねください。板倉頼母内上原判兵衛上原甚右衛門
   より篠澤佐五右衛門

207元禄十三年二月二十九日高野町往生院より西念寺を脱し本山の直末になりたいと訴訟一件。龍雲寺も中に入り訴訟を続けるは檀家にも苦身をかける三枚本山直末
   にしてやったらどうだと本山の申添もあることゆえ残念ではあるが堪忍もって子々孫々繁盛の基に而仏果の円と存じ意趣書付を披露 西念寺専譽より総旦那衆そのほか宛

208享保五年正月 一、岩村田祭礼出入責任上佐五右衛門と喜右衛門両名主退役させられたが再任の希望向もあったが病死した。二、佐五右衛門せがれ貞之助名主筋に
   付き名主役願い出たいところであるが若輩につきこのたびは延引いたしたい。 三、名主役は公儀のおぼしめし次第であるので貞之助へ名主おおせつけられないの
   は有難い次第である貞之助佐五八より

209享保五年正月 一、岩村田祭礼出入の責を以退役の佐五右衛門、喜右衛門を名主に再任願いたく新名主に相談したところ公儀のおぼしめししだいであるとの返事で
   あった。 二、百姓共は自分達のことで責任上退役したのであるがその必要はないと思うから再任の訴えをねがいたい。 三、佐五右衛門は昔から岩村田のため
   数々尽くして呉た家筋であるから是非名主役に再任願う 久太夫外四名より奉行所宛

210享保五年正月 一、岩村田祇園祭礼出入にて両名主召しあげられたが百姓達は困るので両人へ再任を願ったが八月に公儀により割本役を任命されたが請けなかったので
   名主役請けるわけにはいかぬとの事なれどなんとか名主役お返してほしい。 二、佐五右衛門は病死したがせがれ貞之助若年であるが名主跡目であるから
   おおせつけられた。三、両名主が召し上げられたのは百姓どもの祭礼出入のせいであるからなにとぞ両名主再任願いたい岩村田惣百姓百二十五名連印にて奉行所宛

211享保五年正月祭礼出入にて召し上げられた古名主へ今の新名主を取りあげて古名主へおおせつけられるたび一答連判の訴状にて願い上げる。若事済にならなければ
   江戸表迄訴状申上度口上書差し上げる。なおこの口書は役所には出さず

212享保五年二月九日名主役につき僧惣百姓問屋役人再任訴言召願書御意を得たく候につき今度奉行所様出府の際お共として一両人参上いたしたく御慈悲おとりなし
   下されたく願い上げる 九太夫ほか惣役人除名主より奉行宛

213享保五年二月十四日古名主帰役の訴惣百姓拙者とも銘銘願書差上申処此の度は延引仕様達て頼まれたので中止するが今後訴申すが御慈悲願う久太夫外役人惣百姓より奉行宛

214年月不明 勘定所より入会株場を新田開発希望なら申出るよう廻文が出たが我々は山役を納めて株仮取したから重ねて新田開発の廻文が出ても気持は変化しない旨
        書き付ける山本、軽井沢ほか三ケ村村より

215天明八年十二月 盗賊一件請入用割合帳岩村田割本佐五右衛門より猿久保村外十九ケ村宛 

216盗賊一件入用当分割合帳岩村田割本より横帳

217寛政元年七月盗賊取締、造酒右衛門掛合一件御領分割合帳岩村田割本佐五右衛門

218寛政三年六月二十四日盗賊入用割合帳岩村田佐五右衛門より下平尾村ほか十八村ケ名主宛

219寛政三年十二月十七日盗賊諸入用割合帳岩村田佐五右衛門猿久保村清九郎より岩村田外二十ケ村名主宛

220亥年十二月十七日 盗賊入用四給割合之内御領分より加金割帳佐後衛門清九郎

221亥年盗賊入用入用割覚 

222亥年盗賊入用割合写岩村田与三郎殿方ニ而横帳 

223寛政元年四月二十八日江戸出役入用五給大積割合帳

224寛政元年五月西念寺円満寺五穀成就御礼御初穂帳御領分二十六ケ村 

225寛政年間 盗賊入用請取書外一束

226享保十八年十一月吉日萬覚書 自享保二十年正月十六日至文政五年正月十六日篠澤佐五右衛門包淑

227文政六年三月吉日 自文政六年三月十六日迄嘉永四年十一月十九日篠澤晋平方真




( 2022/05/20 )

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