出雲大社 佐久之宮講社 年表

信州佐久岩村田篠澤家神道年表
篠澤家神道略史


神代          記紀に記される紀伊国造系楢原氏が滋野氏となる滋野氏は篠澤の祖。
継体天皇三年 五〇九  滋野多津根爾、日本国使としてに百済に渡る。
推古天皇   六百?  聖徳太子が志能便シノビとして大伴細人オオトモホソヒトを使う(忍者の祖)望月            町の式内大伴社や忍の甲賀三郎(望月三郎)の関係が指摘される。
慶雲四  七〇七  国宝「秘府略」滋野貞主が天皇の命を受け編纂。
          滋野貞主の長女縄子、仁明天皇の女妃となり本康親王を出産。
          貞主の次女奥子、文徳天皇の皇后となり惟彦親王を出産。
          貞主の孫の滋野善言、信濃から宮中へ貢馬の駒牽役人となる。
          以来滋野氏は信濃守、介を務め代々馬寮役職を行う。
元明二    七〇九  滋野氏、朝廷の命により蝦夷征伐に出兵し軍功あり。
元正元    七一五  滋野氏、信濃国長倉に貢物を納入。
霊亀元    七二四  滋野氏、京の北舎門に像を献納。
天平九    七三七  滋野領内に信濃国分寺を建立。
天平十    七三八  滋野氏、望月牧にて駿馬数頭を飼育し神馬として朝廷へ献上。
天平勝宝元  七四九  滋野東人正五位下大学兼博士、駿河守となる。
宝亀八    七七七  滋野船代(従五位但馬守滋野朝臣)遣唐使して渡唐し翌年帰朝。
延暦元    七八二  滋野家沢(従五位下尾張守滋野朝臣)塩焼王の勅使となる。
弘仁十四  八二三  家訳ならびに子の貞主が滋野朝臣を賜る。
承和三    八三六  滋野貞秀、参議正四位下宮内卿となり信濃国滋野の十二町を秀親王に賜る。
仁寿二    八五二  滋野貞主、参議正四位下宮内卿となる。
貞観元    八五九  滋野貞秀佐久の寺尾に八幡宮を奉る。
貞観十    八六八  清和天皇第四皇子貞保親王誕生。皇国に牧馬制を提案され朝議され採用。
            親王眼病となり温泉治療のため信濃の滋野地方を訪問され、亡くなる。親王の墓所は同地の宮嶽山陵。「滋野親王」とも称し山頂に御宮あり。
            菊宮   貞保親王の王子にも眼病の話あり、病気平癒を神仏に祈願され飼養の白鷹を放鳥され、この鷹が降りた場所が海野地籍であったので、ここを白鳥之郷とし白鳥神社創建。
            善淵王  菊宮の皇子で別名国忠、醍醐天皇より賜滋野朝臣姓。
貞観十二年  八七〇  滋野善根が信濃守に任ぜられる
延長五    九二七  滋野氏神の大伴神社が式内神社に列し従五位上に叙せられる。
承平四    九三四  善淵王(滋野国忠)が山陽、南海の海賊を征伐し信濃守に任じられる。
            八葉神社、駒形神社など創建。
承平八    九三八  滋野氏、平将門軍に滋野領内の国分寺付近で破れた。
天暦二    九四八  善淵王(滋野国忠)は望月館にて逝去。
天暦四    九五〇  滋野恒信が望月牧監として信濃国小県の海野居住
安和二    九六九  滋野朝臣為広将、宮中警護役につく。
            滋野重道から、いわゆる「滋野三家」に分流す。
            @広重右近大輔望月三郎(望月氏→篠澤氏)
            A広道刑部大輔海野太郎(真田氏)
            B道直左京大輔祢津祐平(祢津氏)
望月.海野.根津は「滋野三家」と呼ばれ滋野直系となる。
            次ぎの■は滋野家宝。現在篠澤家の家宝となっている。
            ■「滋野家桐大念珠」二連が篠澤家に現存。
            @「信濃国科尾畷.貞保親王三年忌追福製但シ延喜乙丑願主滋野氏」の添書あり。
            A「菊之宮眼病平癒祈願製」の添書あり。
            ■滋野伝来木像2基が篠澤家の家宝となっている。滋野善淵製の添書。
            @貞保親王木像。  A船代木像。
            ■滋野家獅子香炉一台がが現存。「本朝鋳物創始ノ製」の添書あり。
            ■滋野家重藤梓弓一張が現存。「本朝最古二紀ノ製」の添書あり。
            万寿二 一〇四一  望月広重、後一条天皇の命により京の盗賊の取締を行う。長            久二年に望月城にて逝去。
康平七 一〇六四    望月国重正五位蔵人頭、次男の重昌は九州博多に下向し社家となる。今も同地に社            家望月氏あり。
長治元 一一〇四  望月重親、御田介宮を創建。現在も佐久市望月に御嶽神社という字名あり。
          また、弓の名人でもあり鶴岡八幡宮の正月弓始めに流鏑馬を奉納。
          保元元 一一五六  望月重義(従五位上望月左衛門督)保元の乱で滋野系(望月)義          朝に従属。望月城にて逝去、
          墓地は津金寺。   ※津金寺の滋野氏代々の奈良時代以来供養塔等は長野県宝。
保延三 一一三七  西行が望月城を訪問。
治承四 一一八〇  平家打倒のために滋野一族が依田城にて旗挙。
寿永二 一一八三  望月重氏、正五位上右近ヱ少将兼信濃守重野朝臣となる。この人物が甲賀流仁術の祖だという。
寿永二 一一八三  望月重隆(従五位下左衛門督望月遠江守)木曽義仲軍に真田と随従。
建久三 一二三七  佐久福王寺に望月氏像(重文)
安貞二 一二二八  望月重澄(従五位下左衛門督)北条時頼に流鏑馬などの古事を指南。
建長二 一二五〇  滋野一族が内裏改修奉仕。
文応二 一二六一  望月盛重(従五位下左衛門督)鶴ヶ丘八幡宮の御的始を奉仕。
正中元 一三二四  望月重惟(従五位越中守)望月場内水不足にて江ノ島より弁才天を勧請すると水が湧き出す。
正慶元 一三三二  望月幸勝、父盛世と新田義貞援護、八葉神社で軍中祈願
元弘三 一三三三  佐久の両羽神社へ滋野一族が石寵奉納。
正長元 一四二八  望月城望月河内守光尚、大井家に客将として岩村田に招かれる山浦村、岩村田村一部と根々井村全部を領す。
望月河内守以来の墓石は岩村田の石並地籍に現存。
一四二八  畠山重成宇都宮参河守追討足利義政檄文が当館現存。
望月城より持参したという半弓が現存
文安元 一四四五  望月氏が雨羽神社へ納経。
正平四 一三四九  望月左馬頭重信城内で将車宗良親王(信濃宮)「すめらぎの御世も曇らで望月の駒も勇 みて野に遊ぶらん」と詠まれる。
寛正4 一四六三  望月重隆、後花園天皇御勅使を御接待申し上げる。
  五 一四六四  望月上野守光重が宮中より「篠澤」と(ささざわ)の読みを賜る。以来篠澤となる。
篠(ささ)は榊(さかき)と同様に皇室や神道の神事に密接な植物である。
          澤(さわ)は諏訪(すわ)が変化したもので勅使を諏訪でもてなしたためと言う説もある。
長享元 一四八七  村上、依田軍が佐久へ侵入し神社、寺院兵火。滋野氏の氏神の式内大伴神社は翌年再建。
          四年後に望月氏ゆかりの八幡宮再建。十三年後布引観音修理。
  三 一四八九  十代将軍足利源義植公より感謝状を賜り書状現存する。
          同年芦田常陸助様より感謝状を賜り書状が現存する。
天文年間 一五三一 篠澤信重、武田信玄を御接待し「信玄直筆自画図」を拝領(家宝)。邸内の井戸の名水を沸かし風呂とす。以来旭湯と呼ばれる。
永禄年間 一五六四 川中島戦に武田軍として篠澤氏出兵し使用の槍が現存。篠澤邸内に「武田家上杉家一族一党戦病死者供養塔」が現存。
天正三  一五七五 篠澤伊賀守貞兼、長篠ノ戦に参戦し武田軍先陣をつとめ戦死する。馬上にて銃弾を受けたという。
天正十六 一五八八 松平康国が望月氏の駒形神社へ社領寄進。
永禄年間 一五六〇 一族の 望月源八ら町内に鼻顔稲荷神社(日本五大稲荷)を創建
永禄七年 一五六四 武田信玄の弟信繁の次男の信雅が養子として望月城主となる
          武田家より衣冠束帯用の冠を賜る。家宝として現存。
慶長五 一六〇〇  篠澤対馬守信重次男印月斎一峯が同族の真田家のため出陣し関ヶ原戦に向かう徳川秀忠軍を御牧原から攻撃しその功績から同地に篠澤の地名を賜る
          印月斎望月家伝来皇族祖宗祭祀ノ事、遺宝ヲ伝フとある。印月斎は八幡宮を再建。
慶長一九 一六一四 篠澤右京が真田軍として大阪冬の陣に出兵
慶安年間 一六四八 小諸藩主青山因幡宗俊守公に篠澤篠澤佐五衛門献上鯉料理当文献佐久鯉最古の文書として佐久史学会が発表。当文書中のカラスミ、金平糖は江戸時代全国最古。なお金平糖は舶来品。
寛永元 一六二八  篠澤源左衛門重淑、軽井沢より当地まで用水を引く。篠澤用水、篠澤水源の名あり※現在篠澤水源の水は佐久市の水道水の25%に使用されている
寛永元 一六二八  歴史書「千曲川ノ真砂」に「岩村田ノ篠澤源左衛門手勢五百騎ニテ小笠原軍千五百騎ト戦ヒ両将ヲ大弓ニテ射大勝ヲ得ル」と記載される
元禄三 一六九一  篠澤家祇園祭の御振舞を現在まで承る。(重要無形文化財指定)
天和二 一六八三  祇園祭でもめごとあり、隠居篠澤源吾衛門より息子の篠澤佐五右衛門へ申し送り状あり
元禄三 一六九一  今年も祇園祭を例年通り行いたい  篠澤佐五右衛門拝 
同         岩村田での祇園祭と近津神社の祭礼料が欲しい。岩村田、長土呂役人より岩村田代官大田作之進宛書状当家にあり。
元禄十 一六九八  当地の諏訪社と瀬戸村八幡社が打ち鳴らしの件で喧嘩となったが、双方で譲りあうように瀬戸村宛書状当家にあり。 
同         岩村田の各町で祇園の御舟や踊りの習い場を決めること、また祇園祭礼、踊り、踊り場詳細書が完成した      篠澤家蔵
文化二 一七〇六  祇園の祭や踊りが一日で終わらなかったので以後、一日で終わるように取り締まりを願う 役人より役所へ 篠澤家蔵
宝永四 一七〇八  祇園祭の資金の金五百が滞ったので江戸の寺社奉行所へ出頭せよ 篠澤家蔵
          神社への納金は以後は遅らせないとの誓約書  丸山小大夫より小木左内宛   篠澤家蔵
  五 一七〇九  岩村田若宮八幡宮と田ノ口新海神社の両社人神官免許拝受のため上京したいので添え状を願いたい 神主より 篠澤家蔵
正徳五 一七一六  祇園祭御舟式次第書が町内名主年寄によって完成したので役所へ提出  篠澤家蔵
享保二 一七一七  祇園祭での喧嘩の件、荒町が今宿を訴える  篠澤家蔵
          「祇園為替取替証文」    篠澤家蔵
          祇園祭での喧嘩の件、今宿が詫びただけでは困る  大町の喜右エ門より荒町宛  篠澤家蔵
          祇園祭での喧嘩の件で荒町喜佐衛門より詫びられたが迷惑だ  篠澤家蔵
  五 一七二一  「祇園祭礼出し入れ書」  祇園祭での喧嘩騒動の様子について四通  篠澤家蔵
          祇園祭での喧嘩の件にて名主二名がお召しになり、名主退職   篠澤家蔵
          右の件で名主佐五右衛門と喜右エ門をどうか再任させて欲しい  久太夫ほか四名より役所宛  篠澤家蔵
          両名の再任願う岩村田の百姓百二十五名連印「責任はわれら百姓にあり」百姓百二十五名より役所宛 篠澤家蔵
        同 両名の再任許可が出た直後両名病死し次代佐五右衛門と貞之助が名主になる  篠澤家蔵
          篠澤佐五右衛門包淑が京都吉田神社より神主免状を賜わる  篠澤家蔵
        同 祇園祭の家元たる津島神社(愛知)の東都慎信より祇園牛頭天王(ギオンゴヅテンノウ)の御神軸を賜わる。以来現在までこの軸を祇園祭の時だけ篠澤家にて祀っている篠澤家家宝。享保十四年領主内藤家神輿寄進。
享保十九一七三四  篠澤邸内の蔵の棟木札の年数。蔵は現存している。
 二十 一七三五  祇園祭礼の踊りは一日では終わらないが、今年からは早めに終了したい 役所(岩村田藩)宛 篠澤家蔵
元文二 一七三四  今年こそは祇園の祭や踊りは一日で終了したいと思う 役所宛  篠澤家蔵

寛保元 一七四二  今年も祇園祭は規則通り行うことを制約する 荒町 大町 名主     篠澤家蔵
  二 一七四三  祇園の祭りは乱れなきように注意しなさい  役所より  篠澤家蔵
延享三 一七四四  伊勢神宮より福島鳥羽大夫神官みえて鯉料理にてもてなす 献立表現存  篠澤家蔵
宝暦年間   ?  将軍徳川家宣公より感謝状を高崎藩主の松平右京太夫輝高公と岩村田藩主内藤美濃守公より賜る
宝暦七 一七五八  祇園祭礼、神輿、御舟飾、土屋家由来書等の覚書を名主年寄連名で作成 篠澤家蔵
          「御舟由来書」が完成した   篠澤家蔵
          岩村田住吉神社の樹を無断で伐採した訴え状  神主より名主へ   篠澤家蔵
          「住吉神社の樹を無断伐採した住民はどこの氏子が調査しろ」の件ですがそれは神主の支配外の社の者 役所宛 篠澤家蔵
  十 一七六一  殿様の無尽積立金がまだ届かないので当方で立て替えておきます  役所宛篠澤家蔵
  十一一七六二  岩村田若宮八幡宮に預け置いた分を対馬神主に取り上げられては、まかないに迷惑する 名主より役所宛 篠澤家蔵
          祇園祭での喧嘩の件、調査のため氏子を取り調べる 役所より  篠澤家蔵
          若宮八幡祇園用米のうち三俵を名主に取らせる。一方住吉神社の樹は無断伐採せぬ様 柏原神主より寺社奉行へ 篠澤家蔵
  十二一七六三  四年前の六月四日に町内神主役人より町内神主より西尾隠岐守へ差し上げた「祇園祭礼」の写し  篠澤家蔵
安永元 一七七二  篠澤家へ伊勢神宮の神官で歌人の杉木宗太夫逗留し「花は雨に散るともしらて啼く蛙」の句を賜わる 石碑、句軸あり
  五 一七七七  祇園祭狂言の件で荒宿と下宿が異論となり公裁にて祇園祭中止となったが殿様在村中にて和解成立祇園祭挙行 篠澤家蔵
安永九 一七八〇  幕臣の望月八郎左衛門直温が施主となり遠祖法要を望月の城光寺で行い篠澤佐五右衛門参列。
天明元 一七八一  祇園神事に猿久保村と横根村が立ち入り、争いとなるが和解成立する  篠澤家蔵
  四 一七八五  若宮八幡宮に積立金二百三十八両あり  神主より名主宛  篠澤家蔵
  八 一七八九  当家に向神主が来宅するのでお世話をお願いしたい  西村八郎太夫より篠澤佐五右衛門宛  篠澤家蔵
  同       伊勢参宮者帰村にて支払のある村は届出を    篠澤佐五右衛門より二十四ヶ村宛 篠澤家蔵
  同       神主の福島鳥羽大夫は借用が多く蟄居閉門となり弟の兵助に地位をゆずった  酒井貢外より佐五右衛門宛
  同       福島鳥羽大夫弟兵助から相続の祝儀として金二百を頂いた礼状   篠澤家蔵
寛政十二一八〇一  年々祇園祭は華美になっているので古来より由来なきもの禁止する。練りの子供の絹布は禁止。町内練り物は手軽にせよ。
          みこしも禁止するが、御舟付の十一名には乗馬、大小帯刀、御神体立てを許可する。 役所より
文化二 一八〇五  津島神社堀田右馬より永代講の鑑札を拝受
文政十二一八三〇  出雲大社より篠澤佐五右衛門包吉が大黒御神軸拝領。百六十年後平成三年に出雲大社より篠澤家に階位
天保十五一八    御舟飾の着物にこの年号と「縫箔屋辰次郎」の文字あり ※この着物の鯉の模様は津島神社の神饌にちなむ。
  同年      助子十六名を御神体巡幸役にする  篠澤家蔵
嘉永七 一八五四  祇園祭の取り締まり厳しくせよ。この他にもまだまだ申し渡し事がかずかずあり  藩より  篠澤家蔵
安政二 一八五五  仙石隠岐守公御帰城につき西念寺にてご接待
申    ?    祇園明神料、饌料借用証文   柏原神主より  篠澤家蔵
申    ?    六月十八日の祇園祭と九月二十二日の明神祭の飯料借用の件  神主と庄屋より両替商七左エ門宛  篠澤家蔵
巳  十      対馬神主が柏原神主と同じ墓にいれてくれと申し出があったがこれは断った  町職より役所宛          篠澤家蔵
文久年間一八六〇〜 岩村田の祇園の家元たる津島神社から篠澤佐五右衛門包隆が津島神楽図軸を拝領  当家家宝
明治元年一八六八  祇園祭の御祭神の牛頭天王が須佐之男命に変更される。牛頭天王御神代は現在篠澤家にて奉斎
明治初年      西郷隆盛、木戸孝允、大久保利通の直筆の漢詩賜る。溝口桂巌の鑑定書付属。
          西郷=幾歴辛酸志始堅丈夫玉砕醜瓦全…。木戸=六十余州大道通乾坤何物起雄風…。大久保=辞京千里向家郷一夜孤舟客恨長…。
明治二年一八六九  篠澤豊太郎滋吉近らが願主となり御舟屋台を寄進。
大正年間一九一二〜 町内に電線が出現し御舟飾が移動式から固定式になる。真榊(桧)は小型化しリヤカーで童女がひくようになる。戦時中は人手不足にて牛にひかせたが今は男性がひいている。
大正三  一九一四 望月氏ゆかりの副王寺の阿弥陀如来が国宝に
大正四  一九五九 望月氏菩提寺の城光院の印塔が重文指定
大正九  一九二〇 子供みこし誕生
昭和十七 一九四二 篠澤邸に日本軍農兵隊員約百名を終戦まで逗留
昭和二一 一九四六 篠澤家宝の名刀「備前長船長光」の大小を供出
昭和三八 一九六三 北川原千春篠澤家に嫁ぐ、実家は修験神社の霊請山。
昭和五五 一九八〇 花園町区が鼻顔稲荷の下の湯川にて最後のみこし渡しを行う。昭和四十九年から本町で消防放水にて御水渡
昭和五八 一九八三 岩村田祇園祭が佐久市無形文化財に指定。篠澤家での御振舞もこれに含まれた
平成元  一九八九 篠澤明剛、東京神社本庁小野雅楽会に入会し約二年間鳩森神社で修行
平成三  一九九一 篠澤明剛、出雲大社で修行し権少講義と布教師、教師となる
          前島真理子、篠澤家に嫁ぐ、実家は教派神道教会
平成十  一九九三 出雲大社佐久之宮講社を興し、篠澤明剛が講社長に就任
長野新幹線あさま号の竣工祭を奉仕
平成十二 二〇〇〇 京都祇園八坂神社神職岩村田祇園祭を見学され佐久ホテルにて御休憩
平成十三 二〇〇一 篠澤明剛諏訪大社御柱祭の助勤
平成十三 二〇〇一 伊勢神宮の神宮広報課篠澤家神道資料調査のため金鑽禰宜来館
平成十四 二〇〇二 伊勢神宮「瑞垣一九三号」に近世の御祓大麻篠澤家(長野県佐久市岩村田)の神蔵が掲載
平成十七 二〇〇五 篠澤明剛長野県神道青年会友卒業
平成二十 二〇〇八 長野県神社庁で行なわれた長野県神道青年会創立六十周年奉告祭に招待される
平成二四 二〇一二 篠澤明剛少講義に昇進

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篠澤家古文書のごく一部の紹介。


1  寅年五月 岩村田町役人より。諸商人、太物屋、小売穀屋、車屋、旅籠、諸職人、同庵稼者、髪結、銭 湯、作方奉公人、材木、釘類、菓子類、指物屋、作り桑、
   等々公定値段申渡書。※信州佐久岩村田割本篠澤家文書。


2  文政四年九月、更級一件返答。更科左門より借用の金子返情難混等左門より訴訟されたが困窮のため致し方ないので岩村田役人呼出横和百姓吉右衛門より評定所宛
   猿久保、市村の件※信州佐久岩村田割本篠澤家文書。


3  文化十四年二月。当宿次郎兵衛江戸表豊前様江願書。助郷引合人馬出入宿料城押掛際代官早々取引差略望通町役人役所役人取り合わないので町役人困り本家へ
   願い出た嘆願書。元年寄次郎兵衛より本家役人宛岩村田町。※信州佐久岩村田割本篠澤家文書。


4  天保九年十月より十二月。日記帖篠原呉一郎※信州佐久岩村田割本篠澤家文書。


5  天明五年八月。村人死人書留帳岩村田宗門帳減人資料名主※信州佐久岩村田割本篠澤家文書。

6  弘化二年四月出先人別引請連印帳。岩村田町へ出稼住居乃者は必ず引請人請書をとっておくこと岩村田町役宛※信州佐久岩村田割本篠澤家文書。


7  天保十年二月二十七日願書。書付奉願上候。高崎倉賀野へ賃馬稼許可願。馬宿は坂本宿だけでなく松井田宿にても泊まれる様にして欲しい。御影代官所七七ケ村
   牧野領分二十二ケ村より道中奉行へ願書。岩村田篠澤家蔵。

8  宝暦九年九月二十六日神主出入百姓騒動覚。岩村田住吉大明神の神社の森の木を無断伐採したので神主より訴。
   宝暦十二年正月十五日百姓騒動覚。騒動在歌(落首)。※信州佐久岩村田割本篠澤家文書。


9  明治五年十月二十一日〜十一月三日の岩村田篠澤包実の懐中日誌。※信州佐久岩村田割本篠澤家文書。


10 天保四年三月吉日郷中酒御通清水屋多右衛門より岩村田篠澤佐五右衛門宛※信州佐久岩村田割本篠澤家文書。


11 嘉永六年十月五日。出府道中日記篠澤佐五右衛門。※信州佐久岩村田割本篠澤家文書。
 

12 戌年四月十五日深谷遠江守様御差紙一条。呼出状。拝宛書。割本職篠澤家文書(信州佐久岩村田)

13 慶安二年二月二十六日慶安御触書 割本職篠澤家文書(信州佐久岩村田)天保八年写

14 安政五年三月十四日。出府二附萬瑞日記同月二十三日篠澤佐五右衛門包隆。割本職篠澤家文書(信州佐久岩村田)

15 文政四年九月今里村一件返答書更科一件古証文之名前書割本職篠澤家文書(信州佐久岩村田)

16 嘉永三年正月吉日。三月19日依十二月27日篠澤包隆。割本職篠澤家文書(信州佐久岩村田割本篠澤家文書)

17 元禄八年差上申口上之事他十通。田用水セギ取継一件。百姓共より代官所あて※信州佐久岩村田割本篠澤家文書

18 文政八年十一月尚平より差出候一札下書。小田井宿より岩村田前田原を相手用水蟹沢堰出入際尚平に不敬の事ありて一件落着不能となったので身分はどうなっても
   よいが部落百姓が救われるようにとりなし願い。尚平より龍雲寺隠居宛。※信州佐久岩村田割本篠澤家文書

19 文政八年十一月惣代より差出候書付。小田井宿より岩村田前田原を相手用水蟹沢堰出入際尚平に不敬の事ありて一件落着不能となったので願人六十六人者はどう
   なってもよいから一件手切のお裁許と尚平へとりなし願い書。岩村田町惣代六十六名より永平寺。哲丈大和尚宛。※信州佐久岩村田割本篠澤家文書

20 文政二年十月吉日御愁訴小田井村岩村田前田原用水堰取継訴訟一件※信州佐久岩村田割本篠澤家文書
 
21 文政五年二月二十一日更科左門落着一件。※信州佐久岩村田割本篠澤家文書

22 宝暦十二年正月町中騒動之節覚書篠澤長八※信州佐久岩村田割本篠澤家文書

23 元禄十一年正月吉日岩村田町萬御廻状※信州佐久岩村田割本篠澤家文書

24 宝暦十二年正月吉日筑後と町方出入二附覚書篠澤佐五右衛門内※信州佐久岩村田割本篠澤家文書 ▲出入=訴訟、もめごと、騒動。

25 文政二年閏四月岩村田役所宛申渡兼五町定書請印帳田用水取継申渡書百姓四百三十人連印※信州佐久岩村田割本篠澤家文書

26 嘉永四年十二月岩村田藩非常手当積殻帳。藩主より非常手当米の元立として籾五百俵支給されたので村々は毎年不足として積置非常用とする事岩村田他二十五ケ村
   ※信州佐久岩村田割本篠澤家文書※信州佐久岩村田割本篠澤家文書

27 元禄十三年正月岩村田町兼町数家数古城跡書上帳岩村田問屋名主役人より御代官宛※信州佐久岩村田割本篠澤家文書

28 明和七年十月前々御帳外者兼欠落者書上帳岩村田町名主役人より役所宛※信州佐久岩村田割本篠澤家文書

29 文政十三年八月信州佐久郡岩村田町穢多人別帳※信州佐久岩村田割本篠澤家文書

30 文政二年八月信州佐久郡岩村田穢多人別帳堅帳※信州佐久岩村田割本篠澤家文書

31 天保十年三月出稼人別請人受印帳※信州佐久岩村田割本篠澤家文書

32 嘉永七年八月信州佐久郡岩村田町宗門人別御改帳龍雲寺※信州佐久岩村田割本篠澤家文書

33 安政五年八月信州佐久郡岩村田町宗門人別御改帳龍雲寺※信州佐久岩村田割本篠澤家文書

34 天明四年八月信州佐久郡岩村田町宗門人別御改帳禅宗龍雲寺四冊之内壱※信州佐久岩村田割本篠澤家文書

35 宝暦十一年八月二十九日岩村田町帳外者書留帳※信州佐久岩村田割本篠澤家文書

36 元禄七年二月信州佐久郡岩村田町宗門人別御改帳※信州佐久岩村田割本篠澤家文書

37 安永三年八月御仕送金借用証文※信州佐久岩村田割本篠澤家文書

38 明和九年二月二十三日岩村田町卯天銭書上帳※信州佐久岩村田割本篠澤家文書

39 寛政三年二月岩村田町成夫銭書上帳※信州佐久岩村田割本篠澤家文書

40 元文五年御公儀より夫銭帳御案紙※信州佐久岩村田割本篠澤家文書。案紙=雛形。夫銭=助郷などの夫役の代わりに納めさせた金銭。

41 文政四年五月十七日見舞受納帳岩村田町役元篠澤家文書。

42 明和七年八月村々数年カサネヲ助成可相成手段被イ卯渡書。
   村々にて数年収納之際租麦の一部を貯蔵しておき火難水難等の困窮百姓助成になるよう指導書※信州佐久岩村田割本篠澤家文書

43 元禄八年二月年々御拝借目録之覚※信州佐久岩村田割本篠澤家文書

44 文政四年六月二十二日金銀出し入れ其升諸色支書留帳※信州佐久岩村田割本篠澤家文書

45 文政十一年六月岩村田村御貸付金拝借添証文※信州佐久岩村田割本篠澤家文書

46 嘉永四年八月御領分非常御手当積穀帳雛形※信州佐久岩村田割本篠澤家文書

47 安政五年十二月十六日岩村田御年貢献金大割雑用其他目録帳篠澤佐五右衛門包隆※信州佐久岩村田割本篠澤家文書

48 寛政三年九月十四日御土蔵普請諸入用帳岩村田佐五右衛門※信州佐久岩村田割本篠澤家文書

49 文政四年六月二十八日金銭出入諸用帳岩村田役元※信州佐久岩村田割本篠澤家文書

50 享保二十年二月寅之天銭帳岩村田宿問屋名主惣代役人より御役所宛※信州佐久岩村田割本篠澤家文書

51 天保四年十二月二十六日極難之者拝借米貸付人別帳岩村田町役元※信州佐久岩村田割本篠澤家文書

52 正徳五年三月口上覚。岩村田宿問屋跡式出入一件※信州佐久岩村田割本篠澤家文書

53 文政九年十二月十五日去面十二月割以後依当戌十二月十日迄二十四ケ村大割合天銭帳岩村田町割本晋平※信州佐久岩村田割本篠澤家文書

54 寛政六年六月六日御上屋舗御用飼葉藁延割合帳佐久岩村田割本篠澤佐五右衛門。

55 応永五年十月二十三日大内吉廣追討足利義勝檄文巻物信州佐久岩村田篠澤家文書 ■

56 応永二十年九月十日畠山重成宇都宮参河内守追討足利義政檄文 ※信州佐久岩村田篠澤家巻物文書■

57 永禄十年八月七日敬白起請文之事大井幸助、小林図書、小林新助、小海宮内介、土田士郎左衛門、臼田佐渡守、小林五郎左衛門より
   吉田左近助、浅利右馬助両名宛※信州佐久岩村田割本篠澤家巻物文書

58 五月二十二日藤堂大学頭より酒井日向守宛。一筆致啓達候在所之物候之間戻子肩衣十令進覧之候描期向顔之時候恐皇謹言五月二十二日高次花押
   ※信州佐久岩村田割本篠澤家文書巻物。

59 六月二十四日将軍へ差上げた暑中見舞の礼状。松平右京太夫輝高より内藤美濃守宛※信州佐久岩村田割本篠澤家文書

60 永禄六年四月朔日奉再興西念寺本尊阿弥陀之像彩色之事※信州佐久岩村田割本篠澤家文書

61 貞享二年六月十一日佐久岩尾村の内四十石寺門前林等免除上記岩村田竜雲寺へ慶安元年の通り寄進※信州佐久岩村田割本篠澤家文書

62 元禄元年十二月二十日飯沢村龍顔寺庵料に付置芝間紛争一件付元禄四年八月十日飯沢村名主書状。※信州佐久岩村田割本篠澤家文書

63 元禄三年二月乍恐書付を以奉願候御事。岩村田若宮、祇園長土呂近津大明神神祭料として夫夫先代通り祭礼免候致したく願書。
   岩村田長土呂惣役人より新岩村田陣屋代官太田作之進宛。※信州佐久岩村田割本篠澤家文書

64 元禄十年三月二十一日乍恐書付以奉願随意奉□之事龍雲寺大忠より御役□中宛享保二年写す※信州佐久岩村田割本篠澤家文書

65 元禄十年四月四日扱証文之事瀬戸村八幡宮と諏訪明社、社参の際、打鳴ぞめには争論となり両社勤番へ神主善之丞が仲に入り日をきめて
   交互に打鳴初をするようにきめ相互証文取り交わすよしの文書は岩村田より瀬戸村宛のもの。※信州佐久岩村田割本篠澤家文書

66 元禄十年六月岩村田 祇園祭の御舟、踊、踊習場につき各町町詳細取り決め書※信州佐久岩村田割本篠澤家文書

67 元禄十四年七月二十八日 寺社奉行所より指紙の通り出頭する旨の返答書 丸山小太夫より役人宛 
   小太夫を必ず出頭させるという名主両名奥半あり※信州佐久岩村田割本篠澤家文書

68 元禄十七年正月十五日 岩村田西念寺と高野町往生院にて出入となっており往生院は増上寺の末寺になったと言っているが西念寺住職が
   が増上寺へ掛け合いに行ってくるから帰るまで往生院の判形は受け付けないよう願書。西念寺専譽より内藤藩奉行所宛。※信州佐久岩村田割本篠澤家文書

69 元禄十七年正月 七ケ年以前迄岩村田西念寺の末寺であった高野町の往生院が宗門改の節増上寺末と言い出したが増上寺の真意を聞かせて欲しいという書状
   西念寺専譽より増上寺御役者衆中宛※信州佐久岩村田割本篠澤家文書

70 元禄十四年正月西宮免状岩村田町丸山小太夫如恒はえびすもりの家業を務めること
   若て免許の無いものが行ったら吟味を遂げる。摂州西宮夷社中西久晴より※信州佐久岩村田割本篠澤家文書

71 元禄十五年十一月二十四日。一、月牌免として寅新田中川原高八升四合之田壱枚之内。
二、両親忌?として金一両二分上記請取書。善導寺より青木市兵衛宛※信州佐久岩村田割本篠澤家文書

72 宝永二年正月十六日 長久保与三兵衛、望月村庄右衛門両名の者を相手にしないよう廻状。一日市場村ほかより前山村ほか十三ケ村宛。夷守仲間か

73 宝永二年二月 神事舞太夫家職梓神子家職。標願家職免許状幸松勘太夫より岩村田三之丞宛※信州佐久岩村田割本篠澤家文書

74 宝永二年三月二十八日信州えびす願人の事。梓神子の職をつとめる者を公儀よりおたずねがあったので通知する。
   幸松太夫より信州名主中宛※信州佐久岩村田割本篠澤家文書

75 宝永二年四月五日六日 信州えびすもり梓神子の職をつとめているかとの公儀からのおたずねとのこと、故を調べたところ小太夫はすでにやめている。
   弟の門助、三之丞がわけも知らずに渡世のためつとめているが停止せよとの事なればととめをやめさせる。岩村田名主中より幸松勘太夫宛。

76 宝永二年五月十六日 門助、三之丞へ梓神子職がつとまるよう支配帳面へ裁かせてもらいたい。岩村田名主より幸松勘太夫宛。※信州佐久岩村田割本篠澤家文書

77 巳年七月十八日 中西平次右衛門の訴により伊賀守宅区にて寄り合いするので出頭すべし。
   日向守ほか三名伊勢山村竹田伝助ほか21名宛。※信州佐久岩村田割本篠澤家文書。

78 宝永二年七月 観音奉賀金請取覚 龍雲寺三十三番之観音。※信州佐久岩村田割本篠澤家文書。※信州佐久岩村田割本篠澤家文書。

79 宝永二年九月 権兵衛、角兵衛口論喧嘩なれど仲間の衆立入。和解となり権兵衛より証書。※信州佐久岩村田割本篠澤家文書。

80 宝永二年九月十八日 平賀新町にて危ない出入あり内証。近所迷惑かけお詫びする。岩村田えびすもり伝兵衛より名主年寄※信州佐久岩村田割本篠澤家文書。

81 宝永二年九月十八日 権兵衛と佐久の平賀の新町の角兵衛が口論出入のさいに紋助は角兵衛と縁者なので三之丞と紋助に立入り内証に情けすようにいわれたが
   紋助が立ち会わないの手錠つけられ詫書。紋助より岩村田文左衛門ほかあて。※信州佐久岩村田割本篠澤家文書。

82 宝永四年七月五日 当年立会銭五百文滞ったので江戸寺社奉行所へ出頭の差紙をわたしたところここで殺銭を受け取ったので江戸へは出頭しなくも宣○西宮
   平宮平次左衛門 内山木左内より丸山小太夫宛。※信州佐久岩村田割本篠澤家文書。

83 宝永四年七月五日 当年立会銭五百文滞ったので江戸寺社奉行所へ出頭の差紙をわたしたところここで殺銭を受け取ったので江戸へは出頭しなくも宣○西宮
   平宮平次左衛門 内山木左内より丸山小太夫宛。写し ※信州佐久岩村田割本篠澤家文書。

84 宝永五年 正月十二日 岩村田町若宮八幡、新海大明神両社の祠官免状拝受のため上京致したいので添状願い書神主柏原より※信州佐久岩村田割本篠澤家文書。

85 正徳四年正月小太夫近年病身だがせがれ源七無調法者なので何様誰を小太夫跡継にねがいたし。
   小太夫、三之丞、源七連名。浦の村兵左衛門より岩村田役人宛。※信州佐久岩村田割本篠澤家文書。

86 正徳五年六月十七日 岩村田祇園祭礼祇園神輿御舟行事次第。名主年寄より役所宛。※信州佐久岩村田割本篠澤家文書。

87 享保二年六月十日 岩村田祇園祭礼行事の件で今宿を訴訟の一件。あら町名主組頭一同より役所役人宛。※信州佐久岩村田割本篠澤家文書。

88 享保二年六月十二日 岩村田祇園祭礼取継一件為取替証文。大町喜右衛門ほかより、あら町左五右衛門内外宛※信州佐久岩村田割本篠澤家文書。

89 享保二年六月十九日 岩村田祇園祭訴訟の件相手喜衛門より簡単に詫びられたがこのままでよいのか役年の異論もあって困るので書付にしておきたく
   願書。あら宿左五右衛門一同より役所役人宛※信州佐久岩村田割本篠澤家文書。

90 享保六年十月 預ケ金請取証文上平尾守芳院隠居弟子文昌ほかより守芳院※信州佐久岩村田割本篠澤家文書。

91 享保二十年二月 岩村田龍雲寺焼亡につき建立金無尽掛金預り一札岩村田十太夫ほかより龍雲寺宛※信州佐久岩村田割本篠澤家文書。

92 享保二十年五月十八日岩村田祇園祭礼一日にして済ますように各町踊りは刻限を決め必ず次町へ渡すように
   請書岩村田惣役人より役所宛※信州佐久岩村田割本篠澤家文書。

93 文文?二年六月十七日岩村田祇園祭礼踊は一日ですまなかったので以来必ず当日踊り仕舞いに致す請書 有宿名主役人より御役所宛※信州佐久岩村田割本篠澤家文書。

94 元文六年三月摂州西宮本社直支配神職宗門改帳.岩村田西念寺旦那丸山内藤家内書抜※信州佐久岩村田割本篠澤家文書。

95 寛保元年七月.岩村田祇園祭先規の通り相違なく執行の旨の誓約一札あら町大町両名主役人立入人より御役所宛※信州佐久岩村田割本篠澤家文書。

96 寛保二年五月 岩村田祇園祭礼違乱なきよう細部条々役所より※信州佐久岩村田割本篠澤家文書。

97 寛保二年十二月六日飯沼村の庚申座は往古龍顔寺の寺家慈済が庵寺として建てたものだが近年津ね右衛門と申す者が遠国者を差し置き龍顔寺より引き離そうとして
   いるが当寺の指揮に入るよう仰せつけられたく龍顔寺より岩村田役所宛※信州佐久岩村田割本篠澤家文書。

98 寛保三年三月十一日岩村田流雲寺殿堂焼失後再建資金無尽金貸付証文等御尋二附キ返答書岩村田金太夫左五右衛門より御役所宛※信州佐久岩村田割本篠澤家文書。

99 寛保四年四月二日佐久郡岩村田町龍雲寺殿堂焼失後再建資金之内下中込村又兵衛へ預けおき分無尽掛金整理残金請取清算済となった覚え書龍雲寺より上丸子村の
   七右衛門ほか宛※信州佐久岩村田割本篠澤家文書。

100宝暦三年九月御公儀より仰せ付けの二十一ケ条請書平左衛門他十三人より組頭百姓代宛※信州佐久岩村田割本篠澤家文書。

101宝暦六年四月殿様無尽掛金調かねるので拝借願佐久岩村田名主年寄より役所宛※信州佐久岩村田割本篠澤家文書。

102宝暦七年七月六日岩村田祇園祭礼神輿御旅上屋御舟飾の由緒の家々書上覚名主年寄連名※信州佐久岩村田割本篠澤家文書。

103宝暦七年五月十二日差出シ申一札「離縁届書」長土呂村市左衛門より岩村田割本佐五右衛門宛※信州佐久岩村田割本篠澤家文書。

104宝暦八年十一月本尊阿弥陀如来譲渡証文更科郡四谷村六郎右衛門より中氷金色村市平衛宛※信州佐久岩村田割本篠澤家文書。

105宝暦九年十月お尋ねにつき古来より由来の社書上覚岩村田名主役人より役所宛※信州佐久岩村田割本篠澤家文書。

106宝暦十年五月十二日高野山金剛峰寺月牌上人証、平賀村在住篠澤六左衛門寛永十九年正月十九日分
   蓮花定院より篠澤佐五右衛門包淑宛※信州佐久岩村田割本篠澤家文書。

107宝暦十一年二月岩村田若宮八幡免納対馬方江預ケ置分取り上げられては請取神事の節の賄に迷惑するので
   おたずねにつき返答書一札岩村田問屋名主惣役人より役所宛※信州佐久岩村田割本篠澤家文書。

108宝暦十一年十月社家対馬に対する氏子との出入にて役所の吟味に承知して江戸おもてに出訴されたので村中氏子をやめたく江戸おもてにてお願い致したく村中
   連印致しました。惣百姓より問屋名主役人宛※信州佐久岩村田割本篠澤家文書。

109宝暦十一年十二月 一、八幡免の田質入の分返済するよう。二、若宮八幡祇園天王米十俵の中の三俵名主に取られているが返済。三、住吉明神の社木を無断に
   伐採しないよう。四、小作料勘定に神主を必ず立ち会わすよう。五、寺社の仁王は神主の支配より除かれたく。柏原筑後より寺社奉行所宛。
   乍恐以書付御訴言召奉申上候※信州佐久岩村田割本篠澤家文書。

110宝暦十二年正月覚書延宝八年六月四日岩村田神主役人より西尾隠岐守へ差上げた祇園祭礼書付写を差上げる
   岩村田町名主役人より奉行所宛※信州佐久岩村田割本篠澤家文書。

111宝暦十二年六月 昨年十一月十二月神主柏原筑後より訴の一件済口証文 柏原筑後岩村田問屋名主役人立会人より評定所宛

112宝暦十三年八月先祖より伝えられた書物を岩村田西念寺の寺弟子の悪流長老に表具に頼んだところ清左衛門が見たものか、他村にて右書物は相違している旨を
   申された由、来来返気の毒であるから清左衛門を召し出されて吟味願いたく佐五右衛門より役所宛※信州佐久岩村田割本篠澤家文書。

113天明元年閏五岩村田祇園神事祭礼に横根村猿久保(窪)村立入あり和談となる岩村田町惣役人役所宛※信州佐久岩村田割本篠澤家文書。

114天明四年十月龍雲寺の表大門は東西の側に田畑多く所持の百姓衆耕作の作場のようになっている物騒で困るので境内の内の内表大門の脇に歩行道をあけたい願書
   岩村田龍雲寺より役所※信州佐久岩村田割本篠澤家文書。

115安永五年六月五日岩村田祇園祭礼狂言の事で荒宿大宿異論となり公裁により祇園が取りやめになったが当年は殿様も在村であるので立入人、立入和解内情となる
   岩村田間や名主役人より荒宿名主役人宛※信州佐久岩村田割元(本)篠澤家文書。

116天明四年十一月八幡宮神田上米代金年貢作徳未代金神主預りの積立金二百三十八両余は親筑後代より不如意にて家内へ遺込み表面ばかり勘定とはなるので家屋敷
   田地全部差出して勘弁願処家屋敷は残してもらったので自分すべて郷中のお取り計らいに従うこと。神主隠岐より問屋名主役人宛※信州佐久岩村田割本篠澤家文書。


117天明八年四月永代売渡申御道者師職式前書之事。御檀所信濃国佐久(野)郡総村数百五十一ケ総家数一万千百二十軒の持分三百両にて売り渡す証文
   福島主膳より西村八郎太夫信州佐久岩村田割本篠澤家文書。

118寛政五年二月到着.戸倉十郎左衛門より割本、問屋、御役人中宛.八月十五日付手紙来訪して祝儀として樽肴頂戴礼状.
   包紙は福岳大陽氏より篠澤佐五右衛門宛※信州佐久岩村田割本篠澤家文書。

119寛政十二年六月十三日岩村田祇園祭礼華美になってきたが古来よりのしきたりに無いものは取りやめ練りの子供は絹布着用禁止、町の練り物は手軽にして神事
   練り物等ずいぶん省略いたすべし役所より岩村田惣役人宛※信州佐久岩村田割本篠澤家文書。

120文化十一年三月御神領書付共二質置ニ相渡ニ申田地添書付之事。質置証文惣左衛門ほかより留右衛門宛※信州佐久岩村田割本篠澤家文書。

121嘉永六年五月猿窪(猿久保)村の喜太郎相手取り新初切開地境出入一件内済証文 西念寺代名主猿窪村喜太郎より役所宛※信州佐久岩村田割本篠澤家文書。

122嘉永七年六月岩村田祇園祭禮につき厳しく申し渡条々役所より岩村田名主役人宛信州佐久岩村田割本篠澤家文書。

123宝暦九年十一月三日氏子を守護する社はすべて書き上げるべし 仁王社や諏訪社、神明社の三社は書き上げもれとなりこれは柏原対馬の支配ではなかったので
   脱漏した理由であり他の社人の持にすべきと存ずるところなり 名主、問屋、役人より役所あて信州佐久岩村田割本篠澤家文書。

124申年九月百姓一党へ御法度の条々役所より岩村田割本、問屋組頭宛 信州佐久岩村田割元篠澤家文書。

125寛保三年二月八日龍顔寺より訴えの庵は同寺末庵に給れないOO飯料、庵主
   施主等にいさいこころえ内済証取O飯沼村名主役人原組役人より源左衛門内外宛 信州佐久岩村田割本篠澤家文書。

126年代不詳佐久郡岩村田宿えびすもり小太夫跡敷とりきめ届出ケ書雛形 信州佐久岩村田割本篠澤家文書。

127申年六月四日六月十八日岩村田祇園祭礼九月二十二日明神祭につき飯料借用物についての仕末り書岩村田神主庄屋より両替七左衛門宛信州佐久岩村田割本篠澤家文書。

128社人の対馬は祖先柏原織部の親類かとのおたずねにつき、織部が神職をやめたときに内育の清九郎と申す者に苗字を与え柏原対馬と申し神職を行っているが墓所も
   一緒にしてほしいと申したが断った岩村田町織右衛門より役所宛.信州佐久岩村田割本篠澤家文書。

129卯年三月七日角石O門七郎左衛門不審につき吟味申し付べく両人田地家財等につき打ち合わせ安藤右衛門渡辺武左衛門より庄屋宛信州佐久岩村田割本篠澤家文書。

130四月五日先日手紙を差上げたが今に返事が来ないので委細が不明のところ今朝正Oの老母が来て迷惑しているが了簡を早くしらせてほしい春日村名主より岩村田
   問屋名主役人宛信州佐久岩村田割本篠澤家文書。

131年代不明四月八日岩村田龍雲寺と康国寺の隠居は同一人物か。二回も書状をもらったが吉十郎よりたずねていないので引き伸ばしにしたが吉十郎の聞く
   ところによると、そこもとは康国寺の隠居に金を預けてあるとのこと。吉十郎の母が来るように吉十郎よりきかれているが
   あとは意味が不明問屋名主役人より春日村名主宛信州佐久岩村田割本篠澤家文書。

132住吉様御託宣信州佐久岩村田割本篠澤家文書。年不明

133岩村田の西念寺の七世称誉順可和尚履歴書。信州佐久岩村田割本篠澤家文書。年不明

134御上屋敷松食芳覚年月不明信州佐久岩村田割本篠澤家文書。

135雑書信州佐久岩村田割本篠澤家文書。

136御遷宮御金甫布。布片在中信州佐久岩村田割本篠澤家保管。年月不明

137本社棟札信州佐久岩村田割本篠澤家保管。年月不明

138十月一日家督相続の祝儀として金200疋おくられたことと祝祠に対する礼状
   御師福島鳥羽屋太夫より岩村田名主年寄宛弟兵助(鳥羽太夫と相続)信州佐久岩村田割本篠澤家文書。


139福島鳥羽太夫に不始末につき蟄居を命じ家督は弟兵助に相続させ御地檀家のご繁盛ご祈祷
   あい務めますゆえ宣言酒井貢外より篠澤佐五右衛門宛信州佐久岩村田割本篠澤家文書。
   ※不始末とは金銭紛失事件で町内御札授与師K家が濡れ衣にて上田へ追放され、後に当地へ戻るが、激怒したT家は伊勢屋敷へ放火したという。


140正月十三日新年挨拶につき一、岸本十左衛門下向の節、世話になった礼。
   二、祈祷料五十疋到来の礼。福島鳥羽太夫より篠澤佐五右衛門宛信州佐久岩村田割本篠澤家文書。

141福島貢外より篠澤佐五右衛門宛本文不明年月不明信州佐久岩村田割本篠澤家文書。

142八月七日当地村中旦那名書帳面今明日中に塩名田丸山新左衛門へ届けます。篠澤源五衛門より高野山蓮花院使僧宛信州佐久岩村田割本篠澤家文書。

143子年十一月二十六日当年葺替につき宇宮諸入用分勘定書由次郎より佐五右衛門宛信州佐久岩村田割本篠澤家文書。

144手紙年月日不明折紙式文献信州佐久岩村田割本篠澤家文書。

145藤枝丹波守取次控文書手紙控折合信州佐久岩村田割本篠澤家文書。

146宝永四年七月五日西宮役銭併法度書の連判滞り寺社奉行より江戸へ召し出の指紙されたがここで済ますことにより江戸へ行かなくてもよくなり
   今後は決して遅らせない誓約書丸山小太夫より山木佐内宛 信州佐久岩村田割本篠澤家文書。

147九月十九日福島鳥羽太夫里方請戻につき代表の者、伊勢へ参りかけ合い帰村したので廻文をもって知らせる猫又出金未納の村は早く届けるようにまた
   鳥羽太夫自信は当冬は檀まわりするとのこと岩村田佐五右衛門より与良ほか二十四ケ村宛 信州佐久岩村田割本篠澤家文書。

148享和元年八月 明和八年西村八郎太夫へ金三百六十両にて売り渡した佐久郡川東村岩村田付惣担中この節買い戻してもらいありがたく子々孫々まで
   申し伝え忘却しないとの一札 福島鳥羽太夫より岩村田惣担中宛

149明和八年十月十五日福島鳥羽太夫より神職向当方へ引取拙宅にて万事取きめ調達するゆえよろしく願いたく挨拶状 
   西村へ八郎太夫より篠澤佐五右衛門宛信州佐久岩村田割本篠澤家文書。

150元禄四年七月二十九日岩村田龍雲寺了山和尚遷化のあとまだ後住も決まらぬが決まったら重要行事あるので立会吟味すべく寺領山林田畑庫裏に至るまで吟味
   無住の間は火の用心夜番油断なく行う事 越後魚沼郡上田雪洞庵より岩村田竜雲寺閑居旦中宛信州佐久岩村田割本篠澤家文書。

151宝永四年七月五日役銭受取書西宮平次右衛門内山木左衛門より丸山小太夫宛信州佐久岩村田割本篠澤家文書。

152寛文ニ年法性院堤山信玄公法度押書信州佐久岩村田割本篠澤家文書 ■

153宝暦十三年古書類書付写篠澤佐五右衛門より篠澤佐五八宛信州佐久岩村田割本篠澤家文書。

154篠澤家由緒書大久保久乃書

155慶長十二年古代村絵図岩村田問屋役人より仙O太衛門宛中澤由之助信州佐久岩村田割本篠澤家文書。

156寛政十年三月二十七日岩村田鋳物師伝左衛門が鋳物商売につき真継能登守より免許されたので書付の写を上様に差上げたいとの
   事の由、名主総役人奥印して差上げた時の写信州佐久岩村田割本篠澤家文書。■

157天保七年二月二十五日在府中万事諸願書付向O日記獨聞覚O帳同年四月九日迄信州佐久岩村田割本篠澤家文書。

158 一、小諸城主前録。 二、徳川家に対する甲信諸士の連署起請文。 三、平原氏甲府にて誄せられし始末。年月不明信州佐久岩村田割本篠澤家文書。

159 建久四年卯月屋形配置分之事状折紙信州佐久岩村田割本篠澤家文書。

160八月十三日信虎より長老宛。年号不明信州佐久岩村田割本篠澤家文書。

161寛政二年十一月十八日佐久郡岩村田小三郎妹いくを改めたところ節ずれ等の庇は無い事を書付にて差上げる名主役人より役所宛

162足利源義植公様御感状芦田常陸助様御感状年号不明信州佐久岩村田割本篠澤家文書。

163文化九年小作証文之事佐惣次より更級左衛門宛信州佐久岩村田割本篠澤家文書。

164酉年五月岩村田城主内藤美濃守人馬継方覚横帳信州佐久岩村田割本篠澤家文書。

165酉年五月十五日御先荷人馬割入世話人帳信州佐久岩村田割本篠澤家文書。

166村村諸役割高横帳信州佐久岩村田割本篠澤家文書。

167正保五年三月十一日十八ケ村万事之刻横帳佐五右衛門 信州佐久岩村田割本篠澤家文書。

168宝暦四年佐久郡村付高覚書岩村田宿横帳 信州佐久岩村田割本篠澤家文書。

169寛政六年六月殿様御入国萬手口帳信州佐久岩村田割本篠澤家文書。

170寛政七年五月二十一日当二十六日殿様御発駕ニ付人馬割合帳割本佐五右衛門信州佐久岩村田割本篠澤家文書。

171寛政九年四月五日御発駕ニ付人馬割付帳信州佐久岩村田割本篠澤家文書。

172寛政九年四月五日殿様被為遊御発駕候節人馬割付帳信州佐久岩村田割本篠澤家文書。

173享和元年五月二十三日御発駕之節人馬割合帳割本佐五右衛門 信州佐久岩村田割本篠澤家文書。

174文化十年五月十三日御参府人馬割合帳割本佐五右衛門 信州佐久岩村田割本篠澤家文書。

175天保二年五月十三日仙石讃岐守様御登御通行被遊当宿御泊被仰付御本陣相勤候節諸用書留帳篠澤佐五右衛門宛信州佐久岩村田割本篠澤家文書。

176安政二年五月四日仙石讃岐守様御帰城ニ付御泊被遊万事控帳篠澤佐五右衛門宛信州佐久岩村田割本篠澤家文書。

177元禄十七年当殿様日記書留帳自元禄十七年但し宝永と改元至宝暦十年割本佐五右衛門控信州佐久岩村田割本篠澤家文書。

178寛政五年御吉凶其外御領中御取計方重立候儀書大概自寛政五年正月元日至享和四年十二月二十日後閑元吉望月文司信州佐久岩村田割本篠澤家文書。

179寛政九年閏七月大阪勤番御仲間面付帳善光寺東門町岩井屋権平より篠澤佐五右衛門出澤由次郎宛信州佐久岩村田割本篠澤家文書。

180文化七年十一月御領分郡割高改帳役所より御領分村村名主組頭宛信州佐久岩村田割本篠澤家文書。

181元禄二年九月六日手形之事 鉄砲改証文高野町往生院より岩村田浄土宗一行山西念寺宛信州佐久岩村田割本篠澤家文書。

182元禄十二年七月二十九日売渡申田地之事往生院と出入にて差詰田地売渡証文西念寺より庄五郎宛信州佐久岩村田割本篠澤家文書。

183元禄十二年八月二十一日往古より末寺往生院より三十五年以前先住勢誉が差出した末寺往生院の判は勢誉の謀判である由と訴訟されたがそのことは二十一年以前
   本山にて決着すみであるゆえいつでも本山へ上がり往生院と対決するゆえ論議願渡。西念寺より本山(知恩院)御役者衆宛信州佐久岩村田割本篠澤家文書。

184永禄十二年八月二十五日 三十五年前先々住勢誉が差上げた本末御改の往生院の判本につきたずねられたが八月二十一日付書付を差し上げたが昨日また往生院旦那
   青山太郎兵衛がたずねられたよし二十一年以前この出入で欠落した往生院住持秀翁若し往生ならば皆一所に召寄られればありがたいことである岩村田西念寺より
   本山御役者衆宛信州佐久岩村田割本篠澤家文書。

185元禄十二年九月六日往生院と二十一年以来本山へ出入のところ二十一年前には三十五年以前岩村田西念寺の先生住の勢誉和尚着帳差し上げ帳面に往生院は西念寺の
   末寺とあるのでその通り(二十一年以前)しておいたところ十七年以前その帳面は勢誉の謀判であるので往生院よりの訴状により取糸連ているが六役中様本山の御
   役者中様立会にて吟味されたがその判だけ嘘実は乱し難いので末四月直に小造たる類判たずねだして差出さなければいずれ本末の落着はならない旨お伺いしました
   ので一札申しあげます。西念寺より本山御役者衆宛信州佐久岩村田割本篠澤家文書。

186元禄十二年生蓮社岌往上人は往生院三代目住持にて往生院より岩村田の西念寺の開山である.三十九年前元祖上人法事の石切西念寺の勢誉が来て大誉和尚へ上京し
   西念寺の末寺にしてやるから家門帳へも西念寺末寺としても苦しくないとのこと。大誉OO後順可の代は末寺の勤なく秀翁替目の時上京本山の帳面西念寺末寺往生院
   旦那太郎兵衛となっており負けておったが太郎兵衛にきいたところそのような事は全く聞いていないとまた判を押したこともないとのこと。本山帳面の往生院判は
   正判とのことゆえ什物帳の判形、名主所にある太郎兵衛判形持参するので本山御了簡にて慈悲願い上げる高野町禅宗源七郎ほか往生院より知恩院役者衆宛 
   追伸岩村田西念寺隠居勢誉が往生院の似判を使用し本山へ書き上げたと申している。信州佐久岩村田割本職篠澤家文書。

187元禄十三年正月岩村田西念寺と高野町往生院本末の出入につき門中扱申一札の事、郷中九ケ寺、往生院、源七、源七、清六連判。信州佐久岩村田割本職篠澤家文書。

188元禄十三年四月 一、本山へ四十年におよび納めた利Oの往生院の判をけずりとることは理不尽である。二、小諸本町の光岳寺で門中会合往生院に対して小造たる
   証Oの有無たずねたところ無の口書あり。以上にて往生院は
   西念寺の末寺たるべきと決めてほしい岩村田西念寺惣旦中より京の知恩院本山役者衆中宛。信州佐久岩村田割本職篠澤家文書。

189元禄十四年往生院は岩村田の西念寺の末寺であり元禄十二年までは本末の法式をもってつとめさせてきたが十二年に往生院源七郎が上京して帳面の判面の判形は
   謀印なりと申されたがそれでは今までどこを本山としてきたか早く
   察整して西念寺末寺にしてもらいたい西念寺問屋名主惣役人より市川源右衛門役人衆宛 信州佐久岩村田割本職篠澤家文書。

190元禄十五年十二月十九日往生院と本末出入につき京都へ相詰路金入用等に差言Oり借用十五両利金十両計二十五両は八年間に
   年租十俵宛返済証文岩村田西念寺住職専誉町役人法頭より信州佐久岩村田割本職篠澤家文書。

191元禄十七年正月往生院本末出入は六年以前本山にて着帳あらため往生院は西念寺の末寺たる事まぎれもなきこと。往生院源七、清六O沢甲訳なくなっていたが
   今度増上寺末寺になったといっているが貴寺の尊意うかがいたく西念寺専誉総旦中より増上寺役者宛信州佐久岩村田割本職篠澤家文書。

192万治年中之頃十一月十七日江戸にて仰渡された御条目写二通差し上げる。御法度は必ず守るよう信濃の国中直末等迄触達すること知恩院役者源光院ほかより
   佐久郡岩村田西念寺ほか四ケ寺宛信州佐久岩村田割本職篠澤家文書。

193寛文二年正月二十九日岩村田西念寺と跡部の西方寺本末出入となり西方寺が末寺となったが西方寺の諸旦那は本山の直末にするよう西念寺へ意見したところ承知
   故今後双方入婚ねんごろにする様に申し渡す本山常称院ほか二ケ寺より西念寺宛信州佐久岩村田割本職篠澤家文書。

194二月十九日内々の事件で出府されたよし首尾如何か心配しています。寿光院へは取次たのんでおいたから請書内外ともにたのんでください。愚寺の法類に
   天神節性的と申寮坊主がおり是へもたのんでまいったから内証の聞合せも心易くたのんでください
   小諸光岳寺応誉より年号不明岩村田西念寺宛信州佐久岩村田割本職篠澤家文書。

195三月五日年号不明出入りの義不分明のところまたまた訴上さしあげのよし御苦労察しいります公事末落着でもまず帰郷犬?と総旦中も相談して
   おります清光寺ほかより在府佐五右衛門宛信州佐久岩村田割本職篠澤家文書。

196二月二十四日年代不詳龍雲寺からの書状拝見。御用にて衣屋善兵衛方へ来るようたまわりましたが拙O所化寮という学ぶ所にいるのででられないのでこちらへ
   来てもらいたいが御用の節は善兵衛方より人をつかいに寄越してください当方からも龍雲寺へ返事するようにたのみたいしだい
   増上寺玄通察察円より篠澤佐五右衛門宛信州佐久岩村田割本職篠澤家文書。

197三月四日年代不明手紙 一、鉄砲証文のこと。二、龍雲寺察円の件。 三、御知行の件。四、金ニ両返金。 
  岩村田喜佐衛門ほかより江戸佐五右衛門ほか宛信州佐久岩村田割本職篠澤家文書。

198年月不明手紙 なにごとも増上寺察円、玄通両僧よりこまごまきいてください。訴訟末落着にてもなにはともあれ一応帰国なさって皆で相談するのが
   最も良いと思います。龍雲寺より江戸の佐五右衛門宛信州佐久岩村田割本職篠澤家文書。

199年号不明二月二十八日 時に重要事項はない。ご家族、龍雲寺ともに別状ない帰る時に察円より返事もらってきてください。
   忙しいならば無用。龍雲寺より篠沢佐五右衛門宛

200年号不明十一月二十一日高野町の往生院につき当山直末で願出られたがこのことは駄目である。その理由は先年岩村田西念寺の末でもなく勿論当山末でもないむね
   御地門中へ申し送った書状の押判別紙の通りであり往生院よりどんなにたのまれてもこのかた毛頭かまうことはできないむね往生院へも申し聞かしてある。
   九膳院外六寺院より斉藤佐一右衛門ほか一名宛信州佐久岩村田割本職篠澤家文書。

201未年十二月十三日その支配ところの高野町の往生院が本寺がないので増上寺の末寺になりたいといってきたので願い通り末寺にしてやったから左様心得ろ
    増上寺役者寿光院経誉より斉藤佐市右衛門ほか一名宛信州佐久岩村田割本職篠澤家文書。

202六月二十八日年代不明 岩村田西念寺、往生院本末出入につき往生院源七郎上京し対決したいと願書しているが遠国のことでもあり双方住持旦那大勢上京される
   のは大義であるのでそちらでおのおの了簡によりよろしいようにとりあつかうのがよいとおもう。
   知恩院役者九勝院ほかより宝田寺ほか四ケ寺宛信州佐久岩村田割本職篠澤家文書。

203三月五日年号不明 一、増上寺役者衆は訴上の件たまわり下さらぬ様子、当方早速打寄詮議したが決まらない。二、察円と相談されたよし察円からも龍雲寺へ細々
   手紙まいり龍雲寺にても心に掛け相談にのってもらっている。三、鉄砲改め証文、判形、年数は元禄二年のもので本書を差越します。四、上記をみなで相談したが
   決まらず公事未落着でも一応は帰られたほうが良いと思う。 
   五、堂木、せき 普請人足等の件 中沢吉三郎ほか三名より篠沢佐五右衛門ほか三名宛 信州佐久岩村田割本職篠澤家文書。

204戌年九月七日江戸路用其外割合覚廻状 八月八日から九月四日分 岩村田内佐五右衛門ほか一名より香坂村外九ケ村宛

205天和弐戌年天神宮建立に付大工六左衛門喜之助より詫文一通 太田作之進様御手代中より祭礼免に付御下紙併祭礼出入之節隠居源五衛門方より佐五右衛門方へ
   江戸へ遺申候書状写上原与惣兵衛子平兵衛甚五衛門より書状あり信州佐久岩村田割本職篠澤家文書。

206牛年四月二十五日このたび代官が替わるので受取られた代官衆へ御見舞なさるそうでしょうがその時はよくおたずねください。板倉頼母内上原判兵衛上原甚右衛門
   より篠澤佐五右衛門

207元禄十三年二月二十九日高野町往生院より西念寺を脱し本山の直末になりたいと訴訟一件。龍雲寺も中に入り訴訟を続けることは檀家にも苦身をかける三枚本山直末
   にしてやったらどうだと本山の申添もあることゆえ残念ではあるが堪忍もって子々孫々繁盛の基に而仏果の円と存じ意趣書付を披露します。
   西念寺専譽より総旦那衆そのほか宛信州佐久岩村田割本職篠澤家文書。

208享保五年正月 一、岩村田祭礼出入責任上佐五右衛門と喜右衛門両名主退役させられたが再任の希望向もあったが病死した。二、佐五右衛門せがれ貞之助名主筋に
   付き名主役願い出たいところであるが若輩につきこのたびは延引いたしたい。 三、名主役は公儀のおぼしめし次第であるので貞之助へ名主おおせつけられないの
   は有難い次第である貞之助佐五八より奉行所宛信州佐久岩村田割本職篠澤家文書。

209享保五年正月 一、岩村田祭礼出入の責を以退役の佐五右衛門、喜右衛門を名主に再任願いたく新名主に相談したところ公儀のおぼしめししだいであるとの返事で
   あった。 二、百姓共は自分達のことで責任上退役したのであるがその必要はないとおもうから再任の訴えをねがいたい。 三、佐五右衛門は昔から岩村田のため
   数々尽くして呉た家筋であるから是非名主役に再任願います。久太夫外四名より奉行所宛。信州佐久岩村田割本職篠澤家文書。

210享保五年正月 一、岩村田祇園祭礼出入にて両名主召しあげられたが百姓達は困るので両人へ再任を願ったが八月に公儀により割本役をおおせつかったが請けな
   かったゆえ名主役請けるわけにはいかぬとの事なれど、なんとか名主役お返し下さい。 二、佐五右衛門は病死したがせがれ貞之助若年であるが名主跡目であるから
   おおせつけられた。三、両名主が召し上げられたのは百姓どもの祭礼出入のせいであるからなにとぞ両名主再任願いたい。
   岩村田惣百姓百二十五名連印にて奉行所宛。信州佐久岩村田割本職篠澤家文書。

211享保五年正月祭礼出入にて召し上げられた古名主へ今の新名主を取りあげて古名主へおおせつけられるたび一答連判の訴状にて願い上げます。若事済にならなければ
   江戸表迄訴状申上度口上書差し上げます。なおこの口書は役所には出さず。信州佐久岩村田割本職篠澤家文書。

212享保五年二月九日名主役につき僧惣百姓問屋役人再任訴言召願書御意を得たく候につき今度奉行所様出府の際お共として一両人参上いたしたく御慈悲おとりなし
   下されたく願い上げます。九太夫ほか惣役人除名主より奉行宛信州佐久岩村田割本職篠澤家文書。

213享保五年二月十四日古名主帰役の訴惣百姓拙者とも銘銘願書差上申処此の度は延引仕様達ておおせつけられたので中止するがいずれおりをみて訴申し上げるが
   そのときに御慈悲おとりあげ願い上げる久太夫外役人惣百姓より奉行宛 信州佐久岩村田割本職篠澤家文書。

214年月不明勘定所より入会株場を新田に開発したいものがあったら申出るように廻文があったが我々は山役を納めて株をかりとってきたのだから重ねて新田開発の
   廻文があっても気持ちはかわらないから書き付けておく山本、軽井沢ほか三ケ村村より信州佐久岩村田割本職篠澤家文書。

215天明八年十二月 盗賊一件請入用割合帳岩村田割本佐五右衛門より猿久保村外十九ケ村宛 信州佐久岩村田割本職篠澤家文書。

216盗賊一件入用当分割合帳岩村田割本より横帳信州佐久岩村田割本職篠澤家文書。

217寛政元年七月盗賊取締、造酒右衛門掛合一件御領分割合帳岩村田割本佐五右衛門信州佐久岩村田割本職篠澤家文書。

218寛政三年六月二十四日盗賊入用割合帳岩村田佐五右衛門より下平尾村ほか十八村ケ名主宛。信州佐久岩村田割本職篠澤家文書。

219寛政三年十二月十七日盗賊諸入用割合帳岩村田佐五右衛門猿久保村清九郎より岩村田外二十ケ村名主宛

220亥年十二月十七日 盗賊入用四給割合之内御領分より加金割帳佐後衛門清九郎 信州佐久岩村田割本職篠澤家文書。

221亥年盗賊入用入用割覚 信州佐久岩村田割本職篠澤家文書。

222亥年盗賊入用割合写岩村田与三郎殿方ニ而横帳 信州佐久岩村田割本職篠澤家文書。

223寛政元年四月二十八日江戸出役入用五給大積割合帳 信州佐久岩村田割本職篠澤家文書。

224寛政元年五月西念寺円満寺五穀成就御礼御初穂帳御領分二十六ケ村 信州佐久岩村田割本職篠澤家文書。

225寛政 ??? 盗賊入用請取書外一束信州佐久岩村田割本職篠澤家文書。

226享保十八年十一月吉日萬覚書 自享保二十年正月十六日至文政五年正月十六日篠澤佐五右衛門包淑

227文政六年三月吉日 自文政六年三月十六日迄嘉永四年十一月十九日篠澤晋平方真 信州佐久岩村田割本職篠澤家文書。






( 2009/06/26 )

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( 2009/05/12 )

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