出雲大社 佐久之宮講社 年表

篠澤家神道年表
篠澤家神道略史

神代          紀伊国造家より滋野氏派生
継体天皇三年 五〇九  滋野多津根爾が日本国使就任し百済へ
推古天皇   六百?  聖徳太子が志能便として大伴細人オオトモホソヒトを使う 望月式内大伴社や忍甲賀
三郎※望月三郎の関係が指摘あり
慶雲四     七〇七  秘府略」滋野貞主勅命編纂  滋野貞主の長女縄子仁明天皇女妃となり本康親王出産  
貞主の次女奥子、文徳天皇皇后となり惟彦親王出産
            貞主孫の滋野善言が信濃から宮中貢馬駒牽役人となる。以来滋野氏は信濃守、介を務
め代々馬寮役職
元明二    七〇九  滋野氏、朝廷の命により蝦夷征伐出兵軍功
元正元    七一五  滋野氏、信濃国長倉貢物納入
霊亀元    七二四  滋野氏、京の北舎門に像献納
天平九    七三七  滋野領内に信濃国分寺建立
天平十    七三八  滋野氏、望月牧にて駿馬数頭飼育し神馬として御所献上
天平勝宝元  七四九  滋野東人正五位下大学兼博士駿河守就任
宝亀八    七七七  滋野船代遣唐使
延暦元    七八二  滋野家沢、塩焼王勅使
弘仁十四  八二三  家訳ならびに子の貞主が滋野朝臣を賜る
承和三    八三六  滋野貞秀、参議正四位下宮内卿となり信濃国滋野の十二町を秀親王に賜る
仁寿二    八五二  滋野貞主、参議正四位下宮内卿となる
貞観元    八五九  滋野貞秀佐久の寺尾に八幡宮を奉る
貞観十    八六八  清和天皇第四皇子貞保親王誕生 皇国に牧馬制を提案され朝議され採用
            親王眼病となり温泉治療のため信濃滋野地方を訪問され亡くなる 親王墓所は同地宮
嶽山陵 「滋野親王」とも称し山頂に御宮
            貞保親王王子、菊宮にも眼病あり、病気平癒祈願され飼養の白鷹を放鳥 鷹が降りた
地を白鳥郷とし白鳥神社創建※現海野
貞観十二年  八七〇  滋野善根が信濃守就任
延長五    九二七  滋野氏神の大伴神社が式内神社に列し従五位上
承平四    九三四  善淵王(滋野国忠)が山陽、南海の海賊を征伐し信濃守に 八葉神社、駒形神社等創建
承平八    九三八  滋野氏、平将門軍に滋野領内の国分寺付近敗退
天暦二    九四八  善淵王が望月館で逝去
天暦四    九五〇  滋野恒信が望月牧監として信濃国小県の海野居住
安和二    九六九  滋野朝臣為広将、宮中警護役
滋野重道以来「滋野三家」に分流す@広重右近大輔望月三郎(望月→篠澤)A広道刑
部大輔海野太郎(真田氏)B道直左京大輔祢津祐平(祢津氏)
次の◎は滋野家宝、現在篠澤家が継承。
            ◎「滋野家桐大念珠」二連で「信濃国科尾畷貞保親王三年忌追福製但シ延喜乙丑願主
滋野氏」の添書と「菊之宮眼病平癒祈願製」の書付あり
            ◎滋野伝来木像二基(貞保親王木像、船代木像)滋野善淵製の添書
            ◎滋野家獅子香炉一台「本朝鋳物創始ノ製」の添書
            ◎滋野家重藤梓弓一張「本朝最古二紀ノ製」の添書
万寿二  一〇四一 望月広重、勅命により京の盗賊の取締を行う長久二年に望月城にて逝去
康平七  一〇六四 望月国重正五位蔵人頭、次男重昌は九州博多に下向し社家となる 今も同地に社家望
月氏あり
長治元  一一〇四 望月重親が鶴岡八幡宮正月弓始に流鏑馬奉納。御田介宮創建※佐久市望月に御嶽神社
保元元  一一五六 望月重義、保元の乱で滋野系(望月)義朝に従属。望月城にて逝去、墓地は津金寺。
※津金寺の奈良時代滋野供養塔等は県宝
保延三 一一三七   西行、望月城訪問
治承四 一一八〇   平家打倒のために滋野一族が依田城にて旗挙
寿永二 一一八三   望月重氏正五位上右近ヱ少将兼信濃守重野朝臣就任、甲賀流祖か
寿永二 一一八三   望月重隆、木曽義仲軍に真田と随従
建久三 一二三七   佐久福王寺に望月氏像(重文)
安貞二 一二二八   望月重澄、北条時頼に流鏑馬等、古事指南
建長二 一二五〇   滋野一族が内裏改修奉仕
文応二 一二六一   望月盛重、鶴ヶ丘八幡宮の御的始を奉仕
正中元 一三二四   望月重惟、水不足にて望月に江ノ島弁天勧請し水確保
正慶元 一三三二   望月幸勝、父盛世と新田義貞援護、八葉神社で軍中祈願
元弘三 一三三三   佐久の両羽神社へ滋野一族が石寵奉納
応永二十        望月河内守光尚が将軍家家臣接待し足利義政より謝状 光尚領地内で舟姫自害し祇園
祭祀
正長元 一四二八    光尚、大井家に客将として岩村田に招かれる山浦村、岩村田村一部と根々井村全部を
領す 光尚以来の墓石は岩村田の石並地籍に現存
            足利家より謝状 望月城持参半弓現存
正平四 一三二九    望月左馬頭重信「すめらぎの御世も曇らで望月の駒も勇 みて野に遊ぶらん」と詠
文安元 一四四五    望月氏が雨羽神社納経
寛正年間        勅使接待の記録 御所より篠澤ささざわの読みを賜る。篠は榊、澤は諏訪に通ずると
も 篠澤左京 駒形神社禰宜就任
長享元 一四八七    村上、依田軍が式内大伴神社等放火し翌年再建、八幡宮は四年後再建
  三 一四八九    足利源義植より書状
永禄年間 一五六四   川中島戦に出兵し武田家上杉家一族一党戦病死者供養塔奉斎。武田家より冠拝領
天正十六 一五八八   松平康国が駒形神社社領寄進
永禄年間 一五六〇   一族望月源八ら鼻顔稲荷神社創建
慶長五 一六〇〇    「篠澤信重次男印月斎一峯、望月家伝来皇族祖宗祭祀ノ事ト遺宝伝フ」とある。印月
斎は八幡宮と観音堂再建
慶長一九一六一四    篠澤右京 真田軍として大阪冬の陣出兵
寛永元 一六二八   篠澤包淑が用水開発し清水弁財天社奉斎
元禄三 一六九一   篠澤家祇園祭御振舞を現在まで承る
天和二 一六八三  祇園祭騒動一件、隠居篠澤源吾衛門より息子佐五右衛門へ申送状
元禄三 一六九一   今年も祇園祭を例年通り行いたい 篠澤佐五右衛門拝 
同          岩村田祇園祭と近津神社祭礼料希望。代官大田作之進宛書状
元禄十 一六九八   当地諏訪社と瀬戸村八幡社が打鳴の件で喧嘩に「和解せよ」瀬戸村宛書状
同          岩村田各町で祇園御舟や舞踊練習場決定せよ、祇園祭礼、踊場詳細書が完成の記録
文化二 一七〇六   祇園の祭や踊は一日で終了するようにとの嘆願書 役所宛
宝永四 一七〇八   祇園祭資金の金五百が滞ったので江戸の寺社奉行所へ出頭せよとの書状
神社への納金は以後は遅らせないとの誓約書  丸山小大夫より小木左内宛   
五 一七〇九   岩村田若宮八幡宮と田ノ口新海神社の両社人神官免許拝受のため上京したいので添え
状を願いたい 神主より 
正徳五 一七一六   祇園祭御舟式次第書が町内名主年寄によって完成したので役所提出  
享保二 一七一七   祇園祭での喧嘩の件、荒町が今宿を訴える 「祇園為替取替証文」 祇園祭での喧嘩
の件、今宿が詫びただけでは困る 大町喜右エ門より荒町宛  
祇園祭喧嘩の件で荒町喜佐衛門より詫びられたが迷惑だ  
五 一七二一    祇園祭礼出し入れ書 祇園祭での喧嘩騒動の様子について四通   祇園祭での喧嘩
の件にて名主二名がお召しになり名主退職  
右の件で名主佐五右衛門と喜右エ門をどうか再任させて欲しい  久太夫ほか四名よ
り役所宛  
両名の再任願う岩村田の百姓百二十五名連印「責任はわれら百姓にあり」百姓百二十
五名より役所宛 
同  両名の再任許可が出た直後両名病死し次代佐五右衛門と貞之助が名主になる  
篠澤包淑が京都吉田神社より階位を賜わる 
同  愛知の津島神社より祇園牛頭天王の御神軸を賜わり毎年奉斎
享保十四年      領主内藤家神輿寄進
享保十九一七三四   邸内に御神蔵造営し御祓大麻など奉斎
 二十 一七三五   祇園踊は一日では終わらないが、今年からは早めに終了したい 役所宛
元文二 一七三四   今年こそは祇園の祭や踊は一日で終了したい 役所宛書状
寛保元 一七四二   今年も祇園祭は規則通り行うことを制約する 荒町 大町 名主     
  二 一七四三   祇園の祭りは乱れなきようにせよ 役所より  
延享三 一七四四   伊勢神宮より福島鳥羽大夫神官みえて鯉料理提供 
宝暦七 一七五八   祇園祭礼、神輿、御舟飾、土屋家由来書等の覚書を名主年寄連名で作成。「御舟由来
書」が完成
岩村田住吉神社の木を無断で伐採した訴え状  神主より名主へ   
「住吉神社の木を無断伐採した住民はどこの氏子が調査しろ」の件ですがそれは神主
の支配外の者 役所宛 
十一 一七六二   岩村田若宮八幡宮に預け置いた分を対馬神主に取り上げられては困る 名主より役所
宛 
祇園祭での喧嘩の件、調査のため氏子を取り調べる 役所より  
若宮八幡祇園用米のうち三俵を名主に取らせる一方住吉神社の樹は無断伐採せぬ様 
柏原神主より寺社奉行へ
十二 一七六三   四年前の六月四日に町内神主役人より町内神主より西尾隠岐守へ差し上げた「祇園祭
礼」の写し 
安永元 一七七二   伊勢神宮の神官杉木宗太夫より「花は雨に散るともしらて啼く蛙」の句を賜わる 石
碑、句軸
  五 一七七七   祇園狂言の件で荒宿と下宿が異論となり公裁にて祇園中止となったが殿様在村中にて
和解成立祇園祭挙行 
安永九 一七八〇   幕臣望月八郎左衛門直温が施主となり遠祖法要を望月の城光寺で行い篠澤佐五右衛門
参列
天明元 一七八一   祇園神事に猿久保村と横根村が立ち入って争いとなるが和解成立  
  四 一七八五   若宮八幡宮に積立金二百三十八両あり  神主より名主宛  
  八 一七八九   当家に向神主が来宅するのでお世話をお願いしたい  西村八郎太夫より 
  同        伊勢参宮者帰村にて支払のある村は届出を    篠澤佐五右衛門より二十四ヶ村宛 
  同        神主の福島鳥羽大夫は借用が多く蟄居閉門となり弟の兵助に譲位した 酒井貢外より
  同        福島鳥羽大夫弟兵助から相続の祝儀として金二百を頂いた礼状   
寛政十二一八〇一   年々祇園祭は華美に 古来より由来無きものや練の子供絹禁止。町内練物は手軽に み
こし禁止するが御舟付の十一名には乗馬大小帯刀御神体立てを許可する役所より
文化二 一八〇五    津島神社堀田右馬より永代講の鑑札を拝受
文政十二一八三〇    出雲大社より篠澤佐五右衛門包吉が大黒御神軸拝領
天保十五一八      御舟飾の着物にこの年号と「縫箔屋辰次郎」の文字あり ※この着物の鯉の模様は津
島神社の神饌にちなむ   助子十六名を御神体巡幸役にする  
嘉永七 一八五四    祇園祭の取り締まり厳しくせよ。この他にもまだまだ申し渡し事が数々あり 藩より  
申    ?      祇園明神料、饌料借用証文   柏原神主より  
申    ?      六月十八日の祇園祭と九月二十二日の明神祭の飯料借用の件  神主と庄屋より両替商七左エ門宛  
巳  十        対馬神主が柏原神主と同じ墓に入れてくれと申し出があったが断った  町職より役所宛          
文久年間一八六〇〜   岩村田の祇園の家元たる津島神社から篠澤佐五右衛門包隆が津島神楽図軸を拝領  
明治元年一八六八    祇園祭の御祭神の牛頭天王が須佐之男命に変更される。牛頭天王御神代は篠澤家奉斎
明治二年一八六九    篠澤豊太郎滋吉近らが願主となり祇園御舟屋台寄進
大正三  一九一四   望月氏ゆかりの副王寺の阿弥陀如来が国宝に
大正四  一九五九   望月氏菩提寺の城光院の印塔が重文指定
大正九  一九二〇   岩村田に子供みこし誕生し篠澤邸で休憩
昭和五八 一九八三   岩村田祇園祭が佐久市無形文化財に指定
平成三  一九九一   篠澤明剛出雲大社教布教師、権少講義拝受し佐久之宮講社設立
平成九  一九九七   長野新幹線車両清祓祭斎行
平成十六 二〇〇四   天皇皇后両陛下御奉迎所役
平成二二 二〇一〇   諏訪大社御柱祭御奉仕
( 2009/06/26 )

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( 2009/05/12 )

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